子供でありたい

自分の内部での定義
大人:子供に自分達のケツを拭かせる存在
子供:大人にケツを拭かされる存在
なので子供でありたい。


で、子供であるためには自分のケツは自分で拭くのは当然としても、さらに先祖代々たらいまわしにされた大人のケツも拭かにゃならん。だから、南京大虐殺竹島北方領土も年金も自分の代で問題解決しなきゃならん。無理。


だから仕方なく大人を選ぶ。自分のケツだけ拭いていたいが、歴史問題などを見てると時間が経つと「こびりつく」ので簡単には拭けそうにない。だから深刻度から見れば大人共のケツを早く拭いたほうがよい。結局また両方やろうとする。


/////////////////////


そもそもは、改めて自分の巡回先の一覧を見ていて「楽しいことで自分の周りをうめつくしたい」といつも思っているのに「心理的に重い」ページも見に行ってるのは何故なんだろうと考えたのが発端。


で、その理由が「子供でありたいから」なんだと思う。「一人では無理だけど皆でやれば」が理想論ではなくネットによって実現が始まるということ。そして「俺って何も貢献してないよね」という自覚に至る。俺の場合は発言ではなくコードを書くことでしか貢献できないというのは薄々感じている。


/////////////////////


現段階で貢献として考えられるのは「何か作ってソースまでフリーで公開」なんだけど、それってemacs系やら何やらのオープンソースへの恩返し程度で貢献とは言わなくね?と思ってるので他にも何か必要。