「誰かお尻拭いてください」読書ログ

「誰かお尻拭いてください」はつい最近、NC-15経由で知る。勉強「だけ」できるとことか、それをやったのも他人に評価されたいからだとか、大学院の途中でレールをはずれだすとことか、まるっきり昔(といっても一年前)の自分と同じ。「セイト」に関してまで同じだったら本当にすごい。

  • 価値観の否定について
    • 相対的な自分の価値観の上昇?あるいは「優れたものは二つ以上存在しない」という排他的論理?もしくは「全ての価値観には順番があり、自分の価値観が一位である」という誤解?まだよくわからない。
  • 自己肯定感について
    • 中学あたりで失ってからは、就職するまで取り戻せなかった。テストでどんな成績取ろうがそれで褒められようがバイトしようが関係なし。
    • 今のところ、「好きなことをやって、それを認められる」ことでしか回復できないと考えている。自分の好きな「プログラミング」の能力が、仕事やら報酬やらの形で「必要だ」と言われるから安定したのだと思う。そう考えると、多分「肯定してくれる他者」が必要なのかもしれない。が、自分の経験上では、自分から求めないとそんな他者は現れない。ただ、これは自己肯定が「仕事」という形で実現したという、標本数がたった1の経験からの推測に過ぎないので、当てにはならない。

成功の標本数が1なだけで、失敗の標本数はわりとある気もするけど。

    • あと、「能力」がない人間の場合はどうすればよいのだろう。やはり、器用貧乏戦略か?
  • 褒められることに関して
    • 前に書いたかどうか忘れたけど、基本的には褒められるのがそもそも嫌い。
    • 正確には、褒めて欲しい部分以外=大部分を褒められるのが不愉快。「頑張ったこと」も「外見のこと」も褒められても嬉しくない。
    • 「その調子で私の都合のよいように動いてくれたまえ」と言う風にねじまげて解釈するのが原因。親と教師の学習の結果。ここら辺は自分と違うかも。
    • そもそもが「頑張ること」も「外見を整えること」も苦痛であり、それが褒められることはまだそれが続くのだと感じるのだと思う。そう考えると、「プログラミング」とかが褒められると嬉しいのも合点がいく。
  • 鬱の自己分析に関して
    • キリト氏の発言を思い出す。見方次第でいかようにも変わる。
    • 例えば「ケータイでゲームしてる」のと「泣き喚いてる」のはどちらが正常か。交差点の信号待ちなら前者が正常だろうが、目の前で大切な人が死んだ状況なら?
    • ならば、この世界という状況下において「"普通"に振舞う」ことと「"異常"に振舞う」ことのどちらが「正常」なのか。
    • 結局、見方次第なら楽しい方がいいじゃん、ということで「異常×異常」を選ぶ。ただ、それも自己肯定ができるからこその話。


「考えて上手くいったことなんて一度だってあったか?上手くいったことは全て行動を起こしたときだけだろう?」という言葉を思い出した。まぁ、そのせいでスケジューリングが下手だったりするのだけど。
「入力が変わらないと出力も変わらない=環境が変わらないと自分も変わらない」という言葉も詭弁ではあるが信じてはいる。これは「DESIGN IT! w/LOVE」のデザイナの心得にも通じるな。


就職活動で吐きたくなったりとか面接なんて地震かなんかでキャンセルされれば良いのに、とか思ってた頃を思い出す。一つ目の面接に落ちたことで、二つ目の面接はわりと楽になれた。原因はまだ良くわからない。「自己否定」を肯定されたためなのか、「諦め」によってまた一歩進んだのか。


dasaitama_osamu氏がこの先どう進むのかが気になる。自分のようになるのか、あるいは他の道があるのか。自分と同じ道なら楽になれそうだが、観測者としては別の道を行った場合の方が楽しい。いじわるだな。


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リンク忘れてた.ここの「「生きづらさ」を訴える人を叩くこと」から「弱者は難しい」までの読書ログ.