学習に関する雑記

長くなりそうなんで、他の雑記とは切り離しておく。たぶんたいして文脈書かない。


「信じる」という行為によって、検証過程は犠牲になるものの、学習は高速に進む。毎回検証過程をふむと、この利点がスポイルされてしまい、通常の学習となんら変わりないものになってしまう。そう考えると、「信じる」というのは学習結果をより円滑・高速に広めるのに適してるなーとか思う。
で、じゃあ「お前も俺と同じ苦労をすべき」ってのはどうなんだと疑問が湧いた。学習結果を伝達すれば高速になるのに、何故それを拒むのか。しかも、理性的な意見というよりは感情的な意見に見えるので、「検証すべき」とはまた違うものに見える。
たぶん、「苦労することが正しいこと」という学習をしただけなのかなーと。つまり、「"苦労して学習すべき"という学習をした」という感じ。


毎回個人で検証を行うのは効率が悪い。この改善方法について色々考えて、「誰を信じるかを決定することで、事象単位→人間単位という風に検証回数を抑える」というのはどっかに書いたような書いてないような他の人が書いてたような気がする。
それとは別に、「自動で怪しいかどうかを検出する」という機能を持つことで、検証の必要性があるかないかの判断部分を最小限のコストで行う手法もあり、これは(詭弁に特化しすぎているものの)「詭弁パターン」でできそうかなとか。


一度学習した結果はそう簡単には変わらないかなと思っていたけど、案外そうでもないのかなとか。例えば、みのもんたが「今までの常識では〜だったけど、実は〜だった」とか言えば、今まで強くそう思っていた人でも考えを変えることもあるかな、と。案外「人間単位」で信じるか信じないか決定してるのかな、と。ならば問題は「誰を信じるか」を「どう決めるか」なのかなとか。


ここまで書いといてなんだけど、どっかに書いた気がする、あるいはどっかに書かれてた気がする。ちょっと頭が動かん。