電車とケータイ通話:昔考えたことのメモ

どうでもいいのに長くなりそうだから分離。電車とケータイの話。


まず、自分はもう気にならなくなったのでどーでもいい。ということで、もう自分にとって問題ではない。今ケータイ持ってないし。
で、以前は気になっていたわけで、その時に調べたり考えたことをメモ。


「会話」との違い。「ケータイでの会話」と「普通の会話」を比較してみると、音量自体はたいして変わらず、騒音が問題なわけではない。次に非対称性の問題。「ケータイでの会話」は相手の声が聞こえないために、それが気になるというもの。人によってはこれが問題なのかもしれないが、自分の場合は違った。「通話相手の声がやたら大きくて、こちらまでその声が聞こえる状況」というのを想定してみて、それでもやはり違和感を感じてしまった。その時は、色々考えた結果、「ケータイという"物体"に話しかけている」あるいは「話者が見えない(聞こえないではなく)」という状況に対して違和感を感じているのだ、という結論になった。


どっかで見た話(「羞恥心はどこへ消えた?」だったかも。違うかも)。「パブリックスペース」説(ちゃんとした名称は忘れた)。電車は他人と共有する輸送機関であり、それはつまり公園などと同じく「他人と共同で使うもの」として認識される。そこでは他人のことを考慮して行動しなければならない。そして、「ケータイでの通話」が「個人的な行動である」と認識されるため、「他人を考慮してない」と判断されていやがられる、というもの。おそらくは「会話」程度なら「公共の場でやっても良い」と認識されている、という考え。
これは、他の「個人的な行動」に対する嫌悪感と似ているため、一定の説得力を持つ。他の「個人的な行動」としては、電車内での「化粧」「飲食」「音漏れ」などがあり、これらもまた一定の嫌悪を示される。
また、ケータイではなく、車内に備え付けられた電話で会話する場合も、その電話が「電話ボックスのように囲まれた部屋にある(パブリックスペースと隔離されている)」か「むき出しの場にあって、他人に聞こえる(パブリックスペースで行われる)」かでだいぶ違う。
つまり、「パブリックスペースで」「個人的な行動を取る」ことに対して嫌悪を抱く、という考え。これは「社会的な構造の維持」であるために本能レベルでサポートされているらしいので、「理屈」によって導出されるわけではないもの。


で、上のとは逆のことを花見川さんのブクマ米経由で知る。これはこれで説得力があって面白い。「羞恥心はどこへ消えた?」でいうところの「身内」「世間」「他人」のカテゴリも関係するのかなぁとか思ったりするが、今回は特に考えは進めずに終わる。


「ペースメーカー」のことはあまり関係なかった。「ペースメーカーの人が不安になる」という理由を反論の材料にしてはいたものの、自分は「ペースメーカー」を使っていなかったし、そういう知り合いが居るわけでもないし、さらに言えば「じゃあペースメーカーを誰も使ってなかったら通話していい?」と問われたときに「反論したい」けど反論できない=その理由は本当の理由じゃない、という感じになった(脳内実験)。
ここら辺は人によって差が大きいかも。「ペースメーカーを使ってるか否か」というのは外部からは判断されない点と、「他人への影響にどこまで気を使うか("他人なんかどうでもいい"〜"生きていてすいません死にます"の間のどこにいるか)」によって、自分の行動が変化し、さらにそれを「正義」と捉えることで他人を許容しなかったり、「自分はやってないのになんでお前は」的なあれこれ。
だんだん考えるのが面倒になってきた。終了。


結局は、「ケータイでしゃべる」という文化に慣れていなかっただけなのだと思う。他人がどうかは別として。


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どーでもいいのに、何で書いたんだっけ。
→昔けっこう考えたからだろう。


書き出すと、結構時間を取られた。ポーズかけるためにメモしてるのに、結局時間を損してる気がする。


リンク張るなんて久しぶりだな。引用がめんどいからだけど。
メッセージ飛んだりしないよね?ID表記じゃないから大丈夫だよね?
って書いておけば、万が一飛んでも大丈夫だ。


あと、今気付いたけど「さん」付けなのな。人名を久々に書いた、ということ?漢字のあとに「氏」だとごちゃごちゃするか、と思ったけど普通は名前は漢字だよ。名前=英語ってどんだけ「はてな」なんだよ。「はてな」に限らないけど。


一応読み返してみて、「パブリックスペース→パーソナルスペース」「ペースメーカー→ピースメーカー」になっていたときは、さすがに俺の頭はもうダメかもわからんねと思った(N回目)。