論理と説得力:進展

久々にロジックについて考えることになってしまったが、進展があったのでよし。その思考ログ。


発端は「正論への反論は論理的に間違い、ってわけではない」ということから。「自分は論理的」だからといって、「それへの反論は論理的ではない」というのは間違い。
例えば、「ヒナギクは可愛い」「可愛いは正義」という価値観を持っていれば「ヒナギクは正義」が導出できるが、「ヒナギクは可愛くない」「可愛くなければ正義ではない」という価値観を持っていれば「ヒナギクは正義ではない」が導出される。つまり、論理的に導出されたものであろうとも、価値観が違えば結論が逆になることもある、ということ。ここら辺は前に書いた気もするが、まとめと自戒も込めて。


Prologっぽく書けばさっきのは

可愛い(ヒナギク).
正義(X):−可愛い(X).

となるか。「可愛い(ヒナギク)」というのはPrologでいう「事実」であり、下のやつは「規則」にあたる。これらはどちらも「価値観」にあたるといえる。「ヒナギク」は記号か。記号は価値観か?記号に対する価値判断なのか?
普遍的に成立する「事実」や「規則」はあるかなぁと考えるけどビミョー。赤ん坊みたいな未学習状態とか、科学は仮説であるという点とか考えると、結局は「信じる(trueと判断する)」というあたりにアレして「価値観」の問題にアレする。


論理式で書ければ「論理的である」と言えそう。実感とは違うが、間違いなく論理式によって導出されているのでそれは論理的だろう。論理的に見えないのは、それが「自分の中(系、世界、価値観)で成立しない」ためだと思われる。となると、それは「論理」ではなく「説得力」の問題なのではないか。「自分の中で成立する」ならば「説得力」が上がるのではないか。つまり、「論理」と「説得力」の違いは「価値観」に関連するのではないか。ということで、今度ロジックを考えるときは「価値観」を中心に。哲学?デザイン?脳科学?今のメインの脳科学ではちょっと違うか。


「説得力」を増すには、より一般的な(=マジョリティの)価値観によって導出すればよいということになるか?一般受けを狙う場合だけど。個人相手ならばその人に合わせるべきか。
例えば、「ヒナギクは可愛い」が一般的で「可愛いは正義」が一般的でないとする。そのときに、その「ヒナギクは可愛い」「可愛いは正義」という「経路」の代わりに「ヒナギクは生徒会長」「生徒会長は正義」という経路を選ぶような感じで。


「別に論理的に書く必要なんて微塵もないじゃん」とか思ってたものの、そもそも「論理的である」ということがたいして価値のないことっぽい、という結論。重要なのは「何を土台に導出したか」あたり?「どの論理を選んだか」も重要か。といってもやっぱりそこらへんが重要になる状況というのは「主張」とか「論文」みたいな「他人にどう見られるか」を意識した場合のみかな。じゃあやっぱどうでもいいか。自分の場合は「解説技法」あたりで考慮するぐらいか。


という感じで、結局、相殺失敗して帰宅中にロジックを考えてしまったというメモ。明日まで持ち越せば、もう少し変化・熟成・こなれるとかあったかもだが。とりあえず、「論理」と「説得力」について「価値観」というとっかかりが見つかったのは嬉しい。はずれだとしても、しばらくは楽しめそう。ということで、安心しておもちゃ作りに戻る。