善意を踏みにじる行為はおいくら?

ここで「善意は踏みにじられてなんぼ」みたいな文章を見て、「じゃあ、なんで俺は寄付者の要求に従うべきとか思うんだろう」という疑問を抱いて、その答っぽいのを見つけたのでメモ。


結論としては、「寄付者の要求に従ったほうが長期的に見て利得が大きくなるから。そして寄付者もそれを知っているから要求する」ということ。ただし、ゲーム理論のみの導出であることに注意。

導出

ゲーム理論を用いて考える。「寄付者」「寄付を受ける施設(以下、施設)」という二人のプレイヤーを想定する。この事件に特化する気はないので、特定選手や特定施設については無視する。


寄付が行われない場合の両者の利得は共に0であるとする。
寄付が行われる場合、「寄付者」は「満足」という精神的な利得を得て、「施設」は「車椅子」という物理的な利得を得る。
このとき、「寄付者」には寄付の分だけ経済的な損失が発生する。「施設」には特に損失はない。


寄付を行うかどうかは「寄付者」のみが選択できる。そのため、「施設」はいかにして「寄付者」に寄付という行動を取らせるかを考える必要がある。そこで発生するのが「寄付者の要求に従う」という行為だ。


一回きりのゲームであれば、「寄付者の要求に従う」というのは口約束でもかまわない。しかし、複数回のゲームであれば、相手に「寄付」を選択させ続けた方が長期的には得なので、多少のコストを払ってでも「寄付者の要求に従う」方が良い。


以上。

問題点

・まず考えられるのは「普通、そこまで考えて行動しねーよ」ということであり、多分その主張は正しい。ただ、そういう「善意は踏みにじってはいけない」という文化がこういうゲーム理論から形成された可能性はある、という話。


・「赤星選手はサインすべきだったか、こっそり寄付すべきだったか」については考えてないが、今回の件を見る限り、「サインした車椅子」を匿名で売ることは困難と思われる。そのため、「寄付した車椅子を売って欲しくない」ならば「サインして堂々と寄付」した方が良く、「寄付した車椅子が売られたかどうか知りたくない」だけならば「サインせずにこっそりと寄付」した方が良いのではないかと思われる。また、サインの有無に関しては「車椅子の貨幣的価値の向上」という負の側面だけでなく、「患者への精神的な支え」という正の側面もある。これはululun氏のエントリでも指摘されている。


・肝心のエントリをブクマし損ねてたので、ググって探す必要があった。しかも「なんぼ」で検索しても「ナンボ」は引っかからないので困った。結局、google→ululun氏のエントリ経由で見つけた。どんなことでもブクマしとくべきなのか?

今日の雑記

・今日も出社ですよ。仕事は好きだから別に良いけど、趣味の時間が圧迫されるのは困るので、ちゃっちゃか終わらせる。とは言え、明日まではかかるか。


・「文章→解釈」だけでなく、「意図→文章」の段階でもノイズは発生する。故に、本人その意図はないにも関わらず、そうとしか読めない文章が発生する。文章力の問題かと思われるが、自分にも文章力はないのでよくわからない。そもそも文章力なるものが存在するのかもわからない。→意味の一意性を確保する能力?


・たぶん、ゴールデンウィーク明けにRSSリーダを読むときに、(時間的に読めないので)捨てるフィードが発生する。どうせだから、その時に優先順位を再調整するんだぞ、俺!
手順:「読みたい順に読む」「読んだ順番はメモ」「メモをもとに再カテゴライズ」
カテゴリーは増やすべきか?メモ書いてから考えるか。