「学習」と「論理的導出」と「努力」とTシャツと私となんたらかんたら

Yシャツだっけ?まぁどうでもいいや。上の続き、こちらはただの雑記。まぁ、雑記とメモの境界線は微妙だが、文章をなすかなさないか程度の違いはある。


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前述の流れが正しければ、学習の結果として出てくるものは「そういうパターンもある」という程度のものであって、「一般的な事実」とは限らない。故に、「〜という事象にも当てはまる」だけでは「一般的な事実」とは言えない。


検証作業の重要性、及びそのやり方?やり方そのものが検証に値するのでメタループ。「他の仮説では駄目なこと」とか「この仮説でのみ説明できること」とか。何にせよ「説明できる」だけでは不十分だな。「絶対」などない以上、程度問題にもなるか。


前述の流れも検証すべき対象。「仮説の切り出し」のために「学習」は本当に必要なのかとか、一つの流れで良いのかとか。


「努力すれば成功する」という学習をしてしまうと、「成功→努力したからだ」「失敗→努力が足りなかったからだ」と言う風にどちらの場合も学習を強化する方向に働いてしまう。これに反するには「努力してない→成功した」
違うな。学習したのは「努力→成功」ではなく「成功→努力」なのではないか。「努力したものが報われるとは限らん。しかし、成功したものはすべからく(ここでは「全て」の意)努力しておる」というやつなんじゃないか。これを学習してしまうと上記のポジティブフィードバックがかかってしまう。コレに反するには「努力してない→成功した」という経験が必要。
いや、それだとフィードバックがかからない。両方学習した結果「努力=成功」と思い込む?


「常識」とは「学習結果」である。


単純に考えれば、学習結果を変更するためにはそれを形成した経験よりも質か量において優る経験で塗りつぶさねばならない。


「強固な学習による結論」と「強固な論理導出による結論」の違い。感覚としては違わないのかもしれない。「結論」→「学習」の連結のため?


「学習」は実感を伴う。「論理導出」はそれ単体では実感を伴わない。それを使って「学習」(というか再検証)を行ってのみ実感が強化される。


「論理導出」だけでは実感を伴わない。非コミュの解消のためには過去の経験を打ち消すだけの「実感(経験)」が必要であるが、過去の学習によって否定される論路導出ではそのような「実感」を得ることはできない。


「学習」は外部とのインタラクションと必要とする。内部で閉じた場合、過去の経験のみを参照するため、今までの学習を強化する方向にしか学習が進まない。故に、そこから抜け出すには外部としての「他人」が必要となる。


今までの生活圏がすなわち今までの学習の土台である。すなわち、過去の学習結果から逃れるためには経験のないことを経験する必要がある。他者が手を差し伸べる可能性は、少なくとも現段階では限りなく低い。いつかそういう社会になるのだとしても、「今」苦しんでいる人間に手が差し伸べられる確率は0と考えるべき。故に、自分の行動によって別の環境を取り入れなければならない。


環境を変えることは自分の内部を変えることではない。考えを変えるのではなく、まずまわりを変えること。環境とは「住んでる地域」や「所属している組織」や「自分の普段触れる情報源」などがある。最初の二つは無理でも、情報源ならば変えることは比較的容易。しかし、変えたからといって「良くなる」とは限らない。変化が起こりうるだけである。