解説技法メモ

前回の「水に浮かぶ氷」の解説時に感じたことのメモ.


「壁を越えること」を「勉強」とするならば,「壁を越えさせること」が「解説」.「登ること」が「勉強」で,「登らせること」が「解説」.やはり「勉強」と「解説」の二つは表裏一体で,「解説」をやることで「勉強」も進む感じがする.きちんと自分が「登った」上で,その足場を固めた上で,他人をつかんで「登らせる」感じ.
ていうか,「〜させる」って書くとすげぇ偉そうだな.解説時は使わんほうがええ.


で,どう「登らせる」か.
愚直なのは「ジャンプさせて壁の縁に手をかけて登らせる」タイプ.わりと強引で,登るのが結構つらいし,登る前から諦めがち.
前回の解説でやったのは「階段を作って登らせる」タイプ.この階段の作り方で登りやすさが決定される.


階段を作るに際して重要なのは,「一段の高さ」と「傾き」.「一段の高さ」が低い方が登りやすいし,「傾き」がゆるやかな方が登りやすい.ここで,「一段の高さ」は「理解にかかるコスト」に対応し.「傾き」は「理解させるのにかける文の長さ」に対応する(傾きは別の考えもあるが,まだ文章化できない).前回の例で言えば,「物体は沈んでる分だけ浮力を受ける」というのをいきなり使うと「一段の高さ」が大きくなり,「水に入ってなければ浮力を受けない.水に入っていれば浮力を受ける.半分だけ入っていれば半分だけ浮力を受ける.つまり,沈んでる分だけ浮力を受ける」とすれば,「一段の高さ」は小さくなり,文が長くなるので「傾き」はゆるやかになる.


この階段のたとえを使うと,対象によって解説方法を変化させなければならない理由についても説明できる.元気と体力がありあまる人間に対しては,多少段差がきつくても大丈夫だが,俺みたいなへたれに対しては,段差が小さくて傾きが緩やかな方が良い.これに逆行して,元気な人間に緩やかな段差を用意すると冗長でうざったかったりするし,へたれにきつい段差だと登る気すら起きない.


「傾き」=「文の長さ」であるとしており,「傾きがゆるやか」=「理解しやすい」としているため,「理解しやすい文章を書く」=「長文になる」というデメリットが考えられ,「長文=読まれにくい」となって,結局解説としての意味を成さない(読まれない)可能性がある.
自分もそこそこ長文は苦手な方だが,ただ単に「長いだけ」で読まなくなるわけではない(他人がどうかは知らない).読んでる途中で「わかりづらっ」と思い,なおかつ興味が持続しなくなったときに読むのをやめる.つまり,自分の場合は,十分に「理解しやすさ」に配慮がなされていれば長文でも読めるはずである.逆に言えば,自分に読めない長文とは,文章が長いにもかかわらず,「一段の高さ」が高い文章,いうなれば「傾きは緩やかなんだけど,一段一段が壁なみの高さ」という感じの階段といえる.


ということで,次回から解説の練習するときは,この「階段」を意識してやろうと思う.「解説のバリアフリーや〜」とか言えるレベルになるといいな〜.


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口語体か文語体か,というだけで結構読みやすさが変わったりする.不思議.
→「命令口調」と「丁寧口調」で受ける印象や対応が変わる,と考えるとそうでもないか.「文語体でわからないやつはダメ」ってのは「命令口調にいちいち反感を感じるやつはダメ」っていうようなもんか.「相手への配慮」という概念がないのだな.自省.


階段の例えから色々手法を考えることも可能.「手すり」の存在であったり,スロープに見られるように「一度別方向に行ってから戻ってくる」みたいな.でもエスカレータが何を指すのかがわからん.


階段の例えから,「理屈」と「説得力」の違いを説明できたりするだろうか.今のところ何も思いつかん.