世界は矛盾で満ちている+矛盾からは何でも導出できる

ここ数日断続的に考えていたことのまとめ。依然としてウンコではあるけど、語尾にいちいち付けるのは面倒なのでここでは省く。

論理学における矛盾の扱いと、それに基づく現実の現象

論理学の基本として、「矛盾する系からは何でも導出できる」というのがある。そのため、矛盾する系においては誰かが言ったことと他の誰かが言ったことは容易に矛盾する。そして現に世界は矛盾に満ちており、それゆえに各人の発言は互いに矛盾するが、それゆえに多様性も確保される。現象としてはとても自然であり、多様性の確保の観点からはむしろ現状は肯定すらされる。

世界が矛盾で満たされる理由について

例えば、「エビを食べる」。ある人にとっては何の問題もなく、「餌である」と認識する。しかし、甲殻類アレルギーの人にとってはじんましんが出るなどの反応を起こし「毒である」と認識する。つまり、「同じ行為」であっても「餌である」「餌でない」という二つの学習結果が存在する。つまり世界をひとまとめとして見た場合、「矛盾」が発生する。
同様にあらゆる「行為」に対して「成功」と「失敗」は存在し、その理由も「特性」や「環境」に依存して多様になり、世界には多様な「矛盾」が溢れる。すなわち「矛盾に満ちた世界」はとても自然な現象の結果であり、修正できる類のものではない。

信念と信仰について

全ての「理屈(ロジック=論理)」には「前提」が存在する。
例えば「自分が生きるために他の生物を食らうのは正しいことか?」という問いに対しては、「自分の存在を維持するためなので正しい」「肉体はそもそもそういう風にできているので正しい」「だってみんなやってるから正しい」などの各人の「理屈」が存在し、そのそれぞれに「自分の存在を維持しようとすることは正しい」「肉体の機能に従うことは正しい」「みんながやってるから正しい」などの「前提」が存在する。
そしてその「前提」に対しても同様に「その前提はなぜ正しいのか?」という問いを発することができ、そうやってさかのぼるといつしか「正しいんだから正しい(トートロジー)」か「よくわからんけど正しいと思うから採用している(論理に支えられない前提)」か「卵があるからニワトリが生まれる(ループ)」に辿り着く。つまりは「学習の結果」を「前提」として使っているところが根っことなる。
前述のとおり「学習の結果」は人によって異なる。そして各人によって採用された「学習の結果」こそが「信念」であり「信仰」であり「論理に支えられない前提」である。

結果が相容れないなら、そもそも信念が違う

時間が来てしまったので、ざっと書くだけにしとく。
要は「両者の主張は相容れない」=「二つの結論は矛盾する」=「二人の前提を合わせると矛盾が起こる」とかそんな感じ。