今日の雑記

・そういえば「日々是」で始まるブログ多いなと思ってググった。知らないのばかり出てきた。一番下の関連検索も知らないのばかりだ。


・ツールに見えるか否かって問題は以前の「結論オリエンテッド」の誤解と似てるなぁとか。意味が一意に決まるように書くのは難しい。あるいは意図を一定の誤差範囲内で伝えるのは難しい。


・内容を見てフィルタリングするよりも、発話者のプロフィールでフィルタリングする方が高速だし大量に判定できるよなぁとか。大人数を相手にする場合は相手のプロフィールで判定した方が効率が良いということか。


Wikipedia編集合戦とか良く相手と同じ土俵で戦うなぁとか。対戦の基本は「自分のコストは低い」「相手のコストは高い」という状況にいかに持っていくかだよなぁとか。タイトルしか見てないんで実際に何やってるかは知らないけど。


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・花粉が飛ぶのはわかる。小さいからね。でもタンポポの綿毛が飛ぶってすごくね?あんな大きなのを飛ばすのってすごくね?それがただの植物によってしかも定期的に製造されるってすごくね?(植物を機械に例えてごめんなさいねと言葉を挟みながら)
そんな感じで子供のころは当たり前に見てたものに対して今更ながら感動(厳密にはそれより少し小さい感情の揺れ)をしている。


・子供のころは頭のかたい人間だったなと思う。頭がかたかったから数学信者になったのか、あるいはその逆なのかはわからないが、数学と関連しているのは確かだろう。数学の厳密性。「絶対」の存在。「考具(ISBN:9784484032054)」を読んで再び「オズボーンのチェックリスト」を見てそう思った。


・頭がかたいというか、柔軟性に欠けていたのは「シートン動物記」を読んでしまったのも一因ではないか。子供に従順さを植え付ける本としては知ってる中で一番の本。二回に一回ぐらいの割合で親の言いつけを守らなかった子供が死ぬ物語。実際の割合は覚えてないが、体感的にはそんな感じ。


・そういえばCSSは結局まだ触っていない。というかowataを全然進めていない。あの時の判断からいくと失敗だが、今の判断ではむしろ他の興味とかそういうのが入ってくるのを考慮してなかったことが問題。owataをやる時にCSSもやれば問題はない。


・「ゲームがクリエイターで選ばれない」という問題を以前どっかで見かけた(たぶん発熱地帯かDr.森川の人間風車)。それってゲーム固有の問題なんだろうかと色々考えた結果、テレビ番組もそうなんじゃね?と思うようになった。スタッフロールまで似てる気がする。今思い出せるテレビの企画は「そーたに」しかいない。ひらがなの力は偉大だ。


・「Little Big Planet」って自分でステージつくれるのか。それなら面白そう。というか「どうやったら面白くなるか」を考えなかった俺がダメ。


・二月というのはバイトにはきついのね。ただでさえ三日ぐらい短いのに休日まで入る。だけど家賃は変わらない。


・やってることは毎日同じでも考えることは違うのかもしれない。「毎日同じことしてるから日記なんてつけるだけ無駄」というのは違うのかもしれない、と今思った。そう考えると、学生の頃に日記をつけておかなかったのは惜しい。今はブログがあるから日記付けるのも簡単だろうし。つうかそれ以前にケータイがあるか。


・月曜日は雑記が多い気がする。調べてないので本当かはわからん。「休日は真面目なことはやらない」ということの反動かもしれない。雑記に書いてるのが真面目なことには見えないけども。


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・やはり感情的な文章は馬鹿に見える。自重せねばなるまい。アレはいつか書き直そう。


・「多様性を受け入れるべき」ってのは理解はできても実践は難しい。多様性を受け入れるのに慣れるためには、実際に受け入れられる例を提示した方が早いのかもしれない。プログラマしばりならインデントの扱いも考えられるが、それも宗教か。「A子の方が可愛い」「いや、B子の方が可愛い」も無理?「きのこの山だ」「たけのこの里だ」は大戦争に発展する。


・むしろ多様性を受け入れた場合の損失を計算するように仕向けた方が良い?たいがいの脊髄反射コメントは受け入れても特に損害にはならない場合が多い気がする。自分の場合でしかないのか。観察すべきか。打算嫌いとも関連?


・相手の価値観を肯定することは自分の価値観の否定ではない。ということがあまり意識できてないのが問題?他の要因?いきなりアメリカ〜ンは無理でも日本流のやり方はある気もする。特にリアルの方ではしばらくは無理っぽいからネット上限定での何かとか。


・俺一人救えない賢さよりも馬鹿になることの方が望ましい。「賢く」生きた結果がこのざまだからなおさらそう思う。「賢く」なるのも「馬鹿」になるのも多分ただの選択肢で、どっちかが正しいというわけではないんだろうけど。両方のメリットとデメリットを列挙して検証してそれを各自の価値観の下でどちらがよいかを決定していくんだろう。Min-MaxとかMax-Maxとかその他もろもろで。


・「DESIGN IT! w/LOVE」の過去ログを読んでいて途中でしおりが欲しくなった時に、「はてブするにはアレだ」「はてダにリンク張っとくのもアレだ」と考えてから「普通にローカルブクマする」という結論に至る。いつのまにかそこらへんの優先順位が入れ替わっている。面白い。


・ああ、やっぱりリストアップは和製英語なのか。関数名にしようとして違和感を感じた。


・「エスキモーに冷蔵庫を売る」というのは不要なものを売りつけることだと思ってたけど違うらしい。少なくとも今は意味が違うとのこと。


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梅田望夫氏のLingrイベントの感想と思しきタイトルはどれもこれも普通でつまんねーな,と思ったけど,それって俺の半径ワンクリックとやらが偏ってるからじゃね?と思ったのでこの機会に変な感想を持っている人を探そうかとも思う.面倒だから本当にやるかは不明だけども.


・普通の感想を書いた人に「そうやって賢く生きてそのザマですか」と言うのはかなり破壊力のある煽りだと思うんだけど,実際に使って反応を見る度胸はない.たいていの人は自分の立ち位置を高いとは思ってないはずだし,最前線にいる人がそんな普通の言葉を言わないことは知っている.だから自分の意見を維持しようとすると自分は取り残された人間であることを示しているかのように錯覚させることができる.とは言え,詭弁なので主張と結果に因果関係が証明されておらず,そこをつかれるとつらい.「最前線の人はそんなこと言いませんけどね」と言ってそれ以上関わらないというのが詭弁を使う側の最善手か?


・「あぁ,この人もスルーカを"するーりょく"って読むのはダサイと思ってたのね」と思ったりしながらRSSリーダからいくつかのブログをはずす.

梅田望夫 Lingrイベントまとめ読書メモ雑記

長くなるんでこっち。


・俺は褒められても貶されても伸びる子
・自分がそう思っていない場合、褒められても貶されても嬉しくもないし悲しくもない。
・自分がそう思っている場合、褒められると嬉しいし、貶されると改善しなきゃなと思う。


・基本的には褒める人間は疑っている。自分がそう思っていないところを褒められる場合は特に。本当にそう思っているのではなくて、自分を利用するための手段なのだと自動的に推測が働く。学校と家庭の両方での学習結果。


・学校の感想文で正直な感想を書いたら呼び出しをくらったことがある。それ以来学校では正直な感想ではなく、他の人が書きそうな当たり障りのない文章を捏造するにとどめていた。今の自分の発想を抑制するパターンなので、とっとと捨てたい。


・そういえばゲームプログラマーになるには具体的に何すれば良いのかわからなかった。自分なりにまとめとくべきかも。そろそろ一年経つし。


アーカイブの整列とかは自然言語処理の文脈情報とかでなんとかなるんだろうか。


・たぶん褒めるメソッドの欠点ぐらい百も承知だし、貶すメソッド(今回はそう呼ぶ)の利点も百も承知で言ってるんだろう。そういうことを言う大人は今までにも見てきた。それでも褒めることを推奨するのは「問題点の指摘」と「貶し」を混同する馬鹿に対して、自分も馬鹿になることで対抗してるんじゃないかと憶測。文を見るにそれほど深読みでもなかろう。両方の馬鹿を見て「どっちも馬鹿だなぁ、答えは中間にあるんだって」とか思われることこそ本望なんじゃないか。


・「貶す」って後で読み返したら読めないかもしれん。読みには自信があったのになぁ。「けなす」と読むんだぞ俺。

詭弁試用:学校のせいで詭弁が蔓延したよ編

お題:詭弁が蔓延しているのは学校のせいだという結論を詭弁で導く


「水伝」に代表されるように,似非科学の問題がブログ上で賑わいを見せている.似非科学の問題は「話し手が詭弁を使って自己正当化をはかっていること」と「聞き手がその詭弁に気付かずに騙されていること」の二つである.これら二つの問題を解決すれば似非科学の問題も解決するはずだが,そもそも何が詭弁であるかを理解できなければ「話し手」の方の規制は難しいだろう.そこで,ここでは「何故詭弁に気付けないのか」「どうやったら詭弁に気付くことができるか」の二点に絞って議論を進めていく.


なぜ我々は詭弁に気付けないのだろうか?詭弁を見抜く方法を教わらなかったから?確かにそれもあるだろう.しかし,一番大きな要因は詭弁が正当化されることに慣れてしまったからであろう.どこで慣れてしまったか?学校である.


以下に,詭弁でよく使われるパターン.通称「詭弁パターン」を挙げる.
・比喩:例え話で説明する
・最悪の状況設定:最悪の状況を想定して,どうすべきかを説明する
・部分からの一般化:一部分で正しいことを全体で正しいかのように言う
・ラベル張り:相手にマイナス印象のラベルを貼って否定する
・消去法:いくつかの選択肢が間違いであることを示して,自分の意見が正しいことを示す
・定義の違い:定義を定めないまま言葉を使って誤誘導する
・目標の正当化による手段の正当化:そのまま
・結果からの原因の決め付け:そのまま
・違う条件下での論理の適用:別の状況で正しいことを,さも今の状況でも正しいかのように言う
・検証不能:あとで好きなように言い訳できることで自己正当化する
・相殺:小さな問題で大きな問題を打ち消そうとする
これら全てが学校で使われているのである.詭弁に慣れてしまうのもさもありなんという感じだ.では,実際に一つずつ検証してみよう.


・比喩
例をあげるまでもないだろう.「りんごを3つとみかんを2つ合わせると?」のように学校では比喩を用いて勉強を教えることが多い.特に低学年で使われることが多く,それゆえに比喩に対する耐性は低くなってしまう.


・最悪の状況設定
「受験に失敗したら人生が台無しになる」「良い大学にいかないと人生は無意味だ」と言う教師が居る.親にまでこう言われて自殺した生徒の話も聞く.この詭弁はもはや人を死に追いやるほどのものだ.生徒の諸君は忘れないで欲しい.良い大学に行かせるのは君のためなどではなく,教師としての立場を上げるためなのだ,ということを.


・部分からの一般化
「数学と物理によって建物が建てられる」「英語ができると外国でも旅ができる」など,勉強には様々な利点があると強調される.だがちょっと考えればわかる.君は建物を建てたいのか?外国を旅行したいのか?確かにそれが夢だという人も居るだろう.だがそうでない人もかなり多いはずだ.何より君の夢の役に立たないならば意味がないではないか.


・ラベル張り
学校では勉強ができないことがさも悪であるかのように扱われる.走るのが遅い人も居る.絵が下手な人も居る.そのような人が馬鹿にされることは(悲しいことに)世の中には多いが,それを悪だとまで言う人は居ない.だが勉強はどうだろう.勉強ができないと「努力が足りない」とか「真面目にやれ」と言われる.勉強の能力だって走る能力や絵の能力と同じように個人差があるはずだ.それを認めないのが学校という場所なのだ.


・消去法
4択問題で3つが間違いなら残りが正しい.学校で直接習わなくとも,テストで苦労した人なら誰もが経験することではないだろうか.この詭弁は教師が使うのではなく,生徒が使ってしまうという点でたちが悪い.これは日本のテスト形式の問題でもある.以前CMで見たかたもいらっしゃると思うが,外国では自分で考える選択肢のない問題が一般的である.


・定義の違い
「学生なんだから服装をきちんとしろ」と言われたことはないだろうか.一見まともな理由に見えるが,「学生」というものは「学校で勉強をする人」という意味であり,服装をきちんとする人間のことではない.しかし,学校では教師が権力を振りかざし,このような乱暴な理屈を押し通しているのが現状だ.


・目標の正当化による手段の正当化
「無職になりたい」と思う人などいないだろう.最近ではニート問題などが取り沙汰されているが,多くの人は自分の夢を叶えたい,そうでなくても何かしらの職には就いておきたいと思っているだろう.しかし,「無職になりたくないだろ.だったら勉強しろ」という論理は間違っている.学校の勉強は実世界で役に立つことは少ない.1192年に鎌倉幕府ができたとして,それが仕事の何の役に立つというのか.多くの会社では新社員に対して研修が行われるということも,どれだけ学校の勉強が会社では役に立たないかを示しているだろう.


・結果からの原因の決め付け
「ゲームをすると頭が悪くなる」これは似非科学の一つ「ゲーム脳」でも使われる詭弁であり,学校だけでなく家庭でも使われる詭弁だ.結果だけ見て自分の都合の良いように原因を決めるというのは馬鹿げた手法であるが,学校に限らず幅広く使われているというのが悲しい現状だ.


・違う条件下での論理の適用
「アフリカでは食べるものもろくにない子供がいるんだ.給食は残さず食べろ.」と言う教師が居る.そういう子供が居るのは事実だが,はたしてそれは理屈として正しいのだろうか.給食は無料ではない.親が金を払っているのだ.つまり,レストランで注文しているのと同じことだ.だが,給食はこちらのオーダーを聞いているだろうか?味に気を使っているだろうか?前述の台詞を言う教師は「この世界にはゴキブリを食べる文化があります.だから今日の給食はゴキブリです.」と言われても給食を食べることができるのだろうか?


・検証不能
「頑張って勉強すれば君の夢も叶う」と無責任に言う教師が居る.この台詞があとからどうとでも言えるということにお気づきだろうか?夢が叶ったら「良く頑張った.私の言う通りだったろう」と言えば良いし,叶わなかったら「何故私の言うことを聞いてもっと頑張らなかった」と言えば良い.教師は良い大学に君を送ることさえできたらその先の君の末路などどうでも良いのだ,ということを忘れてはいけない.


・相殺
中学と高校の6年をかけて学校では英語を教える.だが,それで英語が喋れるのはごくわずかだろう.そんな役に立たないことを教えているにも関わらず,学校はそれを改善しようとしない.それどころか「大学受験には役に立つじゃないか」と開き直ることさえある.何のための勉強なのか.大学に行きさえすればそれで良いという学校の腐った姿勢はそろそろ見直されても良いのではないか.


長くなったが,確かに学校で詭弁が使われ,それが正当化されていることが確認できた.普段学校で勉強する時間だけでなく,給食の時間,さらには自分の時間であるはずのゲームの時間にまで学校の魔の手は伸びている.学校での詭弁の使われ方は尋常ではない.その生活が小・中・高の12年も続くのだ.詭弁に慣れないほうがどうかしているというものだろう.


では,どう対処すべきか.「日本から学校をなくす」ことを提言したい.もちろん,学校の代わりとなる機関は必要だ.そこでは将来役に立つ勉強,夢を叶えるための勉強を教える.そもそもかなりのお金と時間を払っているのに何も身に付かないのがおかしいのだ.そんな英会話教室があったらとっくの昔につぶれているだろう.給食費だけでなく,教科書代も払っているし,そもそも学校は税金で動かしているのだ.まぎれもなく我々がお金を払って受け取っているサービスなのだ.税金で無駄な建物が建てられることに怒るのと同様,学校のサービスの低品質さについても同様に怒るべきなのではないだろうか.


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そもそも,詭弁って「学習」を悪用したものだよなぁ,と思ったあたりからの連想.学習を実際に当てはめてるうちに,「これって学校でやるのと似てね?」と思ったので書いてみた.だから半分はマジ.真面目にやると怒りとか憎しみが先に来るので詭弁を使ってネタにしてみた.詭弁を使って書くと調べ物が少なく済んで楽だね.


あからさまに詭弁だとわかるのはつまらない.だから一般的になされるように,論理的な話と混ぜて正当化してみた.事実や相手の意見の捏造も入れてみた.本当のことも入れてみた.意外とそれっぽい作文に仕上がったのではないだろうか.


改めてみると詭弁パターン多いな.深層意識の方にインストールするから問題はないかとも思うけど.