比較基準なしの優劣判定に関する考察ログ

比較基準を提示せずに「〜は優れている」という表現をすることに関する考察ログ。いくつかのブログで関連した話題を見たので考察。


まずはそもそも「〜は優れている」とするためには必ず比較基準が必要なのではないかという仮説。この仮説は正しいと思っているのだがどうやって証明するか。あと、比較基準を提示せずに「〜は優れている」という人は何故そう発言しているのか。


「速い」というのは「速度面で優れる」とほぼ等価である。それ故に「速い」と「優れる」は違うレベルを指すものと考えられる。他にも「素晴らしい」「すごい」などは「優れる」のレベルに属すると推測される。
真偽の判定のために「優れる」が評価基準を必要なことを示せれば上記仮説は証明されるが。。。


評価基準を示さずに「〜は優れている」という人は暗黙に評価基準を持っていると仮定する。その評価基準は何によって発生するか。
・文脈レベル:何かをみて「すげぇ」と言う場合。対象への言及を省略している。←評価基準の省略ではない。評価基準は?
・文化レベル:北朝鮮にて「金正日様は素晴らしい」と言う場合。常識によって評価基準が足されるORそもそも評価基準がない?
「優れている」が「素晴らしい」「すごい」と同レベルであると仮定して判定しているが、この例を見るとそうでもないのか?そもそも普通は「優れている」とか言わないから違和感を感じるのか?


優れた人間、優れたプログラミング言語。どっかで聞いたような言葉。押し付けられる価値観とそれによる評価基準の共有化。