ファラリスの宣教師について.あるいは自由について.

「ファラリスの宣教師」の教えを聴いて以降,「自由とは選択肢が存在することだ」と思うようになった.


この定義のもとでは,自由がないということは選択肢がないということである.見せ掛けだけの選択肢も,実質選択肢がないので自由ではない.自由ではない状況では選択肢がないために行動は一意に決定される.それゆえ,その人の行動には責任は発生しないと考える.その人にできることはせいぜい状況を悪化させることぐらいであり,同じ環境であれば誰であっても最適行動が同じだからである.


これに対し,自由である場合には選択肢が存在し,これは人によって取りうる行動が異なる.選択肢を選ぶ場合,それぞれの選択肢に対してメリットとデメリットを検証し,自分の価値観に照らし合わせて行動を選択しなければならない.それ故,人によって取りうる行動は異なり,「自分だったら違う行動をする」という意見にさらされ,何か問題があった場合には「何故別の行動をしなかったのか.どういう行動基準で動いたのか」という問いをかけられる.それが「自由には責任が伴う」ということの意味だと思っている.


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上の定義ゆえ,ファラリスの信者だからといって悪いことをするわけではない.ただ,ファラリスの力を授かるものは自由のない人間であり,それは主に「下層」の人間であるため,悪事にはしることが多いだけである.今まで不自由だった人間には選択することに慣れていないため,選択肢が出てきても適切な判断ができない.その結果,下層の人間の場合はその力を悪事に使うことを選んでしまう.



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そして雑記.


・自由とは「選択肢が存在すること」であり,どの選択肢を選ぶかはその範疇ではない.適切な判断ができない人間に自由を与えることはその人間にとってすら不運かもしれない.


・この定義で行くと,ファラリスみたいに力だけ与えるのは見せかけの選択肢を与えてるだけなのかもしれない.真に自由にするためにはさらに「情報」が必要になる.情報を探せるだけの力は与えたから後は自分でなんとかすれ,ということなのだろうか.


・「何もしない」という選択は,選択することを放棄することではない.「何もしない」という選択をしただけである.


・とりあえず,ファラリスの宣教師について多少まとめられたので満足.


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・選択肢の判断はラーダの分野か。ファラリスはかつてのように不自由を破壊するのみでその先のことは保障しないということか。