「学習」まわりの雑記

通勤中にぼへーっと考えたやつのメモ(雑記)。「学習」だけを使って色々考える。


「Aをする」→「褒められる=自分にとって良い事象が起こる」→「Aは正しい」
「Bをする」→「怒られる=自分にとって悪い事象が起こる」→「Bは間違い」
という流れが正しいとすると、善悪の概念は環境によって形成される。すなわち、特定個人がどのような善悪の概念を持っているかはその個人には責任がない。
また、褒めるか怒るかは必ずしも善悪に基づいたものではない。ただ単に自分に都合が良いか悪いかだけで判定される場合もある。故に善悪の概念がそのまま伝播するわけではない。


遺伝子によって学習の初期状態が決定されるのであれば、善悪の概念もその初期状態に依存するかもしれない。あまり信じてないが。産まれてすぐに「あいつぶっ殺すでしゅ〜」と考えるような赤ん坊が居るとは思えないというか。


「学習」を行うのは自分の利得を最大にするためであると考える。マイナスよりは0、0よりもプラスを選ぶ。「自分にプラスになる行為を選ぶ」というだけでなく、「自分にプラスになるように環境に手を加える」という行為もその観点から考えると自然。ならば「価値観の押し付け」なども「環境に手を加える行為」として解釈は可能。違和感が解消されるほどのものではないが。


幼少時には「横断歩道は手を上げて渡る」と教わる。実際に手を上げて渡ると褒められ、上げないと怒られる。その結果、「手を上げて渡る=正しい、手を上げずに渡る=間違い」と学習すると考えられる。
その状態で、大人は誰も手を上げずに横断歩道を渡っているのを見る。その状況で考えられる行動パターンは、「誰も手を上げずに渡ってる→多くの他者にとっては手を上げて渡ることはプラスにならない→自分にとってもプラスにならないのではないか→自分も上げなくなる」か「相手は手を上げずに渡っている→相手は間違っている→間違いは訂正する必要がある→手を上げろという→相手はおとなしく両手を上げる→強盗成功」だ。なんか後者は途中から間違ってんぞ。
ともかく、「自分の行動パターンを変更する」か「自分の学習に合わせて環境を変えようとする」ように見える。


他者への価値観の押し付けは「学習結果の強制伝達」以外にも「学習をもとにした環境操作」としても見れるということ。後者の方がまだ納得しやすい。


特定の行動を(無意識的に)選択するのは、その選択肢が良いと学習されているからだと考える。単純に考えると、それを諦めるには「その選択肢は無価値である」あるいは「その選択肢は悪い」という学習によって相殺する方法が挙げられる。しかし、それが「選択肢」である以上、他の選択肢の価値を高めることでも諦めることは可能であり、それが例の「ソレよりもコレが良いという信念」の問題になる。


「信頼する」ということが「相手がそう学習したのなら、自分もその学習結果を取り込む」ということならば、信頼する理由というのはつまり自分と似た学習パターンをしていること?もっと他に何かある気がする。


まだごちゃごちゃしてるし結論が出ない。いろんな意味で。
そもそも、そんなまじめに学習が行われるのかとか。
学習に意識は関わらなさそうだから、「そんなの意識して覚えない」とか「そんなの意識してやらない」とかは無意味だろうけど。