今日の雑記

・睡眠時間8時間くらい。早めに床についたものの、寝つけないことに苛立ち、その勢いで運動をアレコレやってから再び床について就寝。何も考えたくないくらいに肉体的に疲れたい。


・なかなか自覚できなかったので書くのが遅れたけど、「正しさ」を追求しなくなったために結論が安定しない状態が多い。結果的に意見がころころ変わっているように思える。
以前は「正しさありき」であり、「これは正しいはずだ」という前提に基づく行動であったため、安定した状態であり、そして攻撃的な状態だった。
現在は「正しさよりも有用性」となり、「正しさは置いておく」という行動原理になったが、そもそも「正しさ」と「有用性」は別の軸であるため、正しさまわりの判断が結果的に保留されたままになって不安定な状態になっている。
「正しさありき」の状態よりはマシと言えばマシだが、何も「判断」していないのがよろしくない。そして「判断」のためには「知識」なり「前提」なりが必要であり、それはすなわち「これは正しい」という何かがやはり必要ということ。そして恐らくは「これは正しい」と思う理由を「そう習ったから」ではなく「そう判断したから」にしないといけないんだろうな。判断のために必要な前提もまた判断によって作るということは、どこかで「判断に基づかない前提」すなわち「信念」「信仰」が入らざるをえないとは思うが。


・そういえば学校の外でも「そう習ったから」と思うことは多そうだな。みのもんた系とか多分そうだろう。あるいは教師を「自分より〜な人」とみなし、それを拡張して考えると全ての「自分より〜な人」の発言は全て正しく、その発言をもって「そう習ったから」と判断することはありそうだ。


・う。確かに「最近ツイートを見かけない人」のプロフィールが東北の方だった時はなんか強い情動を感じる。Twitterのリスト整理をしてた時に見かけた。実際は3/11以降の発言もちゃんとあって、単に頻度が少ないだけだったけども。


・目の下のクマがひどい。眠いのに寝れないのはきつい。


・久々にまた相性の悪い人から依頼が来たのでまた色々と考えた。
まず「お時間大丈夫でしょうか」的なムダな前置きが嫌いだ。そういう無駄な装飾で余分な時間を食われる方がイヤだ。
次に「事前に整理していない」のが嫌いだ。実際に使わなくとも、いったん文章にしてからそれをもとに喋って欲しい。
また、「依頼」で良いのに「相談」の形式(つまりは疑問形と承認の2段階)になっているのが嫌いだ。というか面倒だ。
そして「必要もないのに口頭で説明しようとする」のが嫌いだ。図示しないとわからないものや、内容が複雑で相互に確認が多く必要な案件はともかく、メールで説明可能なものをわざわざ口頭で伝えようとするのがイヤだ。おそらくはこれも上の「丁寧さ」の一種なんだろうけど、口頭での連絡は集中力も中断されるし時間も相手に合わせないといけないしメールのようにログが残らないので自分で打ち込まないといけないしでとにかくデメリットが大きい。


・悪意をもって書けば、「原発は即時停止しろ」というのは「俺らの安全のためにただちに止めろ。停電して病院の人間が死のうが知らね」ということだよな。
しかし、ドイツは原発止めて電力大丈夫だったんだろうか。ちょっとググった程度ではわからないな。脱原発の動きによって他の電力が確保できたのか。


・なるほど。答を「探す」のではなく「作る」のか。


・うん、ダメだ。他者が「正義」をかざすのを見るだけで精神的にまいる。体調がだいぶ悪いらしい。というかこれは睡眠時間の方だろうな。遅刻してムリヤリ睡眠時間を補正すればなんとかなるが、しばらくは定時退社を強要されるのでそうもいかないのだ。


・だいぶトリッキーだけど昨日の問題は解消した。そして気分を紛らわせるために先の作業もいくつか終わってしまった。あとは休憩しとこう。


・なんというか「責任」というものが理解できてない気がする。「自由には責任が伴うのです!」みたいな定型文がやり取りされるのはたびたび見るけど、「責任を取るとはつまりこういうことです」みたいな発言や行動はあまり見ない。見てもせいぜいが「職を辞して作業を他の人になすりつける」とかそういうのだ。
例えば今回の件にしても、あるいは今までの選挙なり制度なりにしても、全てのことが「自分には責任がない」という風に「感じる」。「思う」ではない。「自分にも責任がある」とはぼんやり「思う」が、それが「どの程度の責任」であり、「どの程度の罪」なのかがわからない。


・おそらくは「責任」は「自由」というよりも「判断」に付随する。自分の定義では「自由」とは「選択肢を選べる状態」であり、この時の「選ぶ」こそが「判断」である。
そして自分は「自由」をこそ求めるものの、「判断」に関する能力がいまいちだ。それは前述の「正しさ」を使わないことなどが原因となる。「判断できないけど自由」というのもバカげた話、というか「選べる」に反している気がするので、次の思考は「判断について」がメインになるのかな。


・現時点での「判断」の定義を考えてみる。
「判断」とは、一定の「理由」に基づき、いくつかの「選択肢」の中から一つを採用・実行することである。
しかし、この段階ですでにいくつか疑問が出てくる。
まず、「一定の理由」って具体的にどの程度だ。選ぶのが当然・必然のものはそもそも選択肢ではないので、選択肢とはある種のトレードオフなどを内包するはずだ。つまり「一定の理由」に基づくとは、「判断軸を選ぶ」になるか。違うか。「この判断におけるメリットはこの点で優れており、デメリットはこのような対応が可能である」「他の判断だとメリットはホゲホゲであり、デメリットの対応は困難である」というのが「判断」だな。「選ぶ」のはむしろ状況を決めれば必然的になるのか。いや、やはり最終的には価値観の相違などで食い違うから「選ぶ」のもまた「判断」だ。単に「選ぶ」前の段階も色々ある、ということだな。
他の疑問としては、「選択肢」自体も探す必要があるはずだ。これは「選ぶ前の段階」とも関連する。単純な「原発は今のままにするべし」と「原発は即刻停止すべし」以外にも「ゆるやかに他のエネルギーへの移行を進めるべし」などが存在するはずで、それを「探す」必要があるはずだ。それをサボったものは本当に「判断」と呼べるのか。無限にコストもかけられないが、ではどの段階で中断するべきか。能力の問題もあるし時間的なコストは状況依存だろうし、ここらへんはよくわからないな。


・今の段階で「判断」についてまとめると、「判断」とは「選ぶこと」ではなく、「調べること」+「想定すること」+「選ぶこと」だろう。「選ぶ」以外は本人の能力や環境に強く依存するため、どの程度一般化が可能なのか現時点ではよくわからない。また、無限にコストをかけられるわけでもないから、「調べること」もどこかで切り上げないといけない。その「切り上げる」というのを選ぶのもまた「判断」で、ここからはゴチャゴチャしててよくわからない。


・「責任」から逆算した場合、「判断」とは「なんらかのデメリット」を選ぶ行為でもある。
「他の選択肢よりも全ての点で優っている選択肢」はすでにその時点で選択肢ではなく、選ばない理由がないため「判断」とは呼べない。つまり、何かを「判断」したならば相対的にであれ他の選択肢より何かが劣るものを選んだことになる。
普通は「なんでこんなに素晴らしんだ!責任を取りたまえ!」とか言われない。普通は「なんで劣っている方を選んだのだ!こういう問題が発生したじゃないか!」という風に責任が問われる。
となると、「想定できたはずの問題への対応」こそが責任だろうか。確かに、事前に問題を想定できていたのなら対応の準備はできたはずだ。「問題(犯罪・事故)を0にする」というのは概ね現実的ではない。故に「責任を取る」というのは「事前に準備する」ということかな。言葉としては時系列的になんか違う気がするけど、それでも「事前に準備をしていなかった」=「責任を果たしてない」というのはそんなに外れてない気がする。むしろ「問題が発生してから対応する」というのは「責任を果たしてない」と言える。無論、問題の詳細がわからないと対応できないことも色々あるから、いくら準備してもすぐに何かができるわけではないだろうけど。


・今の段階で「責任」についてまとめると、「責任」とは「選んだ選択肢のデメリット(問題)をきちんと認識すること」+「それへの対応を事前に準備すること」となるかな。どうにも「責任を取る」というのは「問題が起こった後の行動」っぽくて、「事前に準備する」みたいな「問題が起こる前の行動」を指すようには見えないんだけど、自分の思考ではどうしてもそうあるべきだという結論になりそう。


・さて、では、今の段階での自分の「判断」と「責任」について考えてみるか。
まずは「選択肢」だな。そもそもが「選択肢」をちゃんと探してない気がする。「選挙」などは選択肢として認識しているし、効果は疑問だけれど「デモ」などの存在も認識している。ただ、それは「他人が実行している選択肢」であり、既存のものであり、探してはいない。しかし、同時に探して見つかるとも思えないし、どの程度のコストをかけるのが妥当なのかもよくわからない。ここらへんは「選択肢を探すコストの妥当性」としてあとで考えよう。
次は「想定すること」だ。選択肢を選んだ際に生じるメリットとデメリットの両方を想定すること。やらないわけじゃないが真面目にもやっていない。というか、例えば選挙の場合は「自分に関係のあること」をメインにしか考えない。「老後手当がどうこう」とか言われても自分とのつながりが何もない。しかし、その思考の結果が少子高齢化における「高齢者の優遇」であり、それを「責任」と捉えるならば「自分に関係がないから思考しない」というのもまた責任の放棄である。ただ、全ての政策をつぶさに吟味するのはコストが高い上、さらに一定の知識を要する。つまり「想定にかけるコストの妥当性と、情報の収集量の妥当性」という問題になる。これもあとで考える。
そして「事前に準備すること」だが、これは何をどうするんだ。意識もしていなかった概念だ。仕事ならまだわかるか。例えば「このギミックはこういう特殊状況でのみ上手く動作しない」というのは事前に想定もチェックもできる。それを「セットする人に事前に伝える」ことや「そういう状況でも使える別のギミックを用意する」などが「責任」と呼べそうだ。つまりは「情報公開」や「代替案の提示」などが「責任を果たすこと」と呼べるかもしれない。ていうか、仕事のプログラミングで考えれば良かったな。まぁまた今度やろう。今回はもう時間がない。


・次に考えるやつのメモ。
「責任」と、それのための「判断」。及び「自由」。
「選択肢を探すコスト」「想定にかけるコスト」「情報収集にかけるコスト」のそれぞれの妥当性。
自分の仕事(プログラミング)における「判断」と「責任」。及びそれを拡張して「選挙」や「原発」に適用した場合。
下から順に考えていった方がわかりやすそう。


・今回はあまり趣味コーディングはできなかったけど、上の思考が長かったので結局負荷はかかったままなのであった。


・「判断したくない」のだよな。コスト的にも能力的にも性格的にも。歯車のように決められた形で動き、機械のように指示を待ちたい。手に入れた自由を捨ててしまいたい。しかし「自由を捨てる自由」、つまり「自由を捨てるという選択肢」は存在していない。いや、国外に出ればあるとは思うのだが、「日本語が使えない」「日本の安月給よりもさらに桁違いで給料が安い」などの問題を考えると存在しないと「思う」のだよな。あるいは存在しないと「判断する」か。


・よくよく考えれば、定時から30分くらいまでは残れるのだから、30分までなら遅刻して良いのか。1時間くらいじゃないと補正しづらいが。