もともと興味がなかったので、はてブのbookタグに入ってないのでこちらで。100文字では収まらないというのもあるけども。とりあえず、書評でも感想文でもなく読んで思いついたことの雑記。のつもりが感想文っぽい。
まず、主観を混ぜてまとめると、金銭における格差はたいした問題ではない。江戸以前やアフリカなどと比べると縮んでいるし、ここ20〜30年の間で見ても差が開いている層とそうでない層があり、どの層の昔と今を比べるか、どの層とどの層の今を比較するかで結論はかなり異なる。最低ラインにしても、日本で飢え死にすることはまずありえない以上、ただ生き延びるという最低ラインは確保されているため、一人で家賃3万のところに食費1万円で住むことを最低ラインとするのか、すでに家族を持っていて失業した人が生活できることを最低ラインにするかでも対応は異なる。
基本は上記のどの立場に立つかの組み合わせである。この立ち位置の違いは、サイコロを見て「赤い点があるよ」「いやいや、黒い点が六つだって。赤なんてどこ見回してもねーよ」という程度の見る角度の違いのみならず、「隣のゴルフボールの方がこのサイコロより大きい」「遠くから見たらたいして違わねーよ。PS3の方がでかいって。」のように何と比較するか、その差をどう判定するかによる違いまで引き起こす。
この本では「議論をかわす人達には立ち位置の差がある」ということだけでなく、「議論に興味を持たない人にも立ち位置の差がある」ということがわかる。約半数が(表面的な)議論に興味を持たないという立場だ。「興味ねーんなら口挟むなよ」という(至極個人的な)感想を持ってしまうエントリも含まれているが、発言しなければ「興味を持たない人間」の存在が認知されないので発言せざるをえない状況なのだろう。その点では、はてブやブログでたまに見かける「どうでもいい」という感想も重要なのだと思わせられる。
この本を読むまでは格差社会に対する意見は特に持ってないと思っていたが、言語化されていなかっただけなのかもしれない。今は言語化されて、「魚を与える(金銭を与える)のではなく、魚の釣り方を教える("希望"を与える)べき」というものになっている。ただ、これは以前から持っている「弱者」への対処法を適用しただけで、格差社会に直面して新たに発生した概念ではない。また、「希望格差社会」という単語における「希望」の使い方とも少し違う。「努力してもしなくても結果は同じ」という状況においても発生しうるある種の開き直りにも似た感情を含むものであるが、これに関してはいまだ言語化できてはいない。格差社会にはこれからも興味を持てそうにないが、自分がこの「希望」を持ち続ける限りはいつかこの「希望」も言語化されるだろう。
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なんか感想文みたいになってしまったので、ちゃんと雑記。
・相変わらず「主流の考え」とやらをキャッチ!キャッチ!できてない。新聞もニュース番組も見なくなった影響がでかい。ネットでも定期的には見てたはずがいつのまにか見なくなってる。俺は最初に見た意見に流される傾向があり、さらにそれが自分にとって間違いであってすらなかなか変わらないので、「バイアスのかかったマスコミからの直接の情報」ではなく「さらにバイアスのかかったブロガーの情報」でもたいして問題ではないのかもしれない。むしろブロガーの意見ならば特定個人の意見として自然に見れるか?そうでもないか?自覚次第か?
・そういえばすごい後の方にローゼン閣下の話題が出てくるよ。
・「希望」と「選択肢」の話が出てくるので、ファラリス様を連想してしまう。「必ず何かの神を信仰しなさい」とか言われたら選ぶであろう「自由の神」。もともとは「ファラリスの宣教師」の布教活動に影響されたのだが、肝心のサイトはすでに閉鎖してるっぽい。「下流」の人間には選択肢がないが故にファラリス様は彼らに力をお与えになるのだが、「下流」の人間は力を手に入れても「何かを選択する」ということを思いつかず、それゆえに犯罪に走り、それゆえにファラリスは「犯罪者に手を貸す邪神」というラベルを貼られている。と思っている。ソード・ワールドというTRPGの設定のお話。社会が下流に力を与えても必ずしも良くなるわけではないとも取れる。
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