今日の雑記

・知らない人への挨拶の危険性?「挨拶をすることにより相手との社会的距離を縮め、相手に"カモ"だと思われる危険性」?


・この世に「絶対普遍で世界共通、個人差なしの真実」など無いという認識が、諦めを内包する希望を生み、他者への積極的な意思表示を弱体化させる。のか?


・たぶん、俺にはもう真面目に生きるということはムリ。というかしたくない。楽しく生きていたい。今なら「人生は壮大な暇つぶしだ」とか「人生は楽しむためにある」とか小さい頃には馬鹿にしていた思想も理解できるようになったし、そちらに流れている。小さい頃みたいに真面目に親や教師の言うことを聞いて真面目にルールを守って緊張感を維持しながら生きて行くとかもうムリ。今日見たエントリと今読んでる本から出た感想。


・向上心がないわけではない。ただ、一番を目指そうとは思わない。過去の自分との比較?


はてブする場合にも、どんなはてブをされているかを確認する場合にもアレを起動する。入力と出力を同じ方法でやる感じ。何か他に応用できないか。


・kiya2014のブクマに反応してるエントリを見て、kiya2014のブクマ一覧を見ることを薦めるべきかどうか迷う。BMKSBMの過程において、批判というよりも非難に近いブクマを見かけることがあり、このマカーはソレにあたると思われる(タグクラウドと、そのブクマへのメタブクマを確認した結論:ソレはすでにヲチの対象になっている可能性が高い)。反応する価値があるとは思えないが、いちいちブクマ一覧やさらにはそのメタブクマまでを確認するというコストを払わせてまで判断すべきことなのか。一応、「やって後悔」の方を選んでは見たが。


・久しぶりにはてブを見て、あのメソッドのタイトルが増えたかな?と思ったけどそうでもないっぽい。「これはそういう名前のメソッドだったんだ」という自覚の発生やら、一部で「タイトルは〜です」というエクスキューズの登場は観測できるが、割合としては心配したほどは増えてない。見てない二週間がどうだったかは知らないが俺に問題がなければ問題が無い。トートロジー?問題とはすなわち自分にとっての問題?


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・「やって後悔」とは言っても疑問文を載せただけ。ネット上の行動なのにいちいち躊躇する自分がおもしろい。一応は、このmemecyという存在を、「ネット上の社会的存在としての自分」として見ているということか。あるいは匿名であっても躊躇するのであれば「他者へ影響を与えることへの恐怖」あたりか。最近は「俺の行動は誰にも影響を与えない」と思いながら行動してるし。それが命題として真ではないことは理解しているけども、過去の反動としての強い行動原則ではあるので、利用して前に進んでいる感じ。ここに文の集まり(not文章)を載せている限り、いつか誰かにこれを見られる可能性があり、影響を与える可能性があるのは理解している。


・「文の集まり」と「文章」は違う。相違点として一番大きいのはやはり「文脈」の有無か。「文の集まり」の場合、文脈が存在しないので、読み手はその文脈を「自分の常識」から導出することになり、誤解を生じやすい。文章でも誤解は生じるし、見てわかるぐらいに文脈がない場合は読み手も誤解の可能性を意識するだろう。そう考えると、一番誤解を生じやすいのはここみたいな「文章が一部混じった文の集まり」なんではないかと思ったりもする。思うだけで何もしないけども。


・一度に大量の食物を摂取すると、どうも体調が悪くなる。体がダルイし、思考も上手くできない。単に眠くなるだけかもしれんが。なので、今みたいに仕事中でも食事の摂取が許されていると摂取量の分散が出来て嬉しい。その点でもモバイトは向いてないな俺。


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・「ファラリスの宣教師」でググったら復活してるっぽい?トップページとかは依然としていけないけど部分的に残ってるっぽい.ローカル保存完了.


・圧縮まわりのプログラミングってめっさパズルっぽい.もう少し前に扱っていればもう少し気力が上がった状態で取り組めそうな問題なんだが.上手くこのパズルに没頭できずにいる.


・そういえば上記の本で衆愚の定義を初めて見た.要は「はだかの王様に何もいえない民衆」の状態を指す.おそらくは「他の人がブクマしてる=きっとこれは良いもんなんだ,という思考でブクマしてるんだろ」という意味で使われているのだろう.