詭弁の否定は学習の否定につながるか

詭弁とは学習の悪用であると仮定する。すなわち、「誰かが何かを経験」→「他人に伝えやすい形にまとめる」→「多数にそれ(知識)を渡す」→「それを受け取って擬似経験とする」という学習の過程において、受け取り手が再考察しない点に着目し嘘の知識でどうたらこうたら(解説あきらめちゃったよ俺!)。


で、詭弁に対抗するためには知識を受け取ってからすぐに擬似経験に持っていかず、自分で再考察すればよい。でもコストがかかる。効率の良い情報収集とは言いがたい。昔どっかで聞いた詭弁対策手法はこれだけど、もっと別の方法を考えたい。


確か弾さんのエントリで書かれてた(さらに正確には「学者のウソ」で書かれてた)けど、「信じる対象を決める」のが別の手法なのかと思う。どちらかというと再考察の手法と補完的か?「詭弁パターンでひっかけて再考察に持っていく」というのをベースにして「信じられる対象の場合は通常の学習パターンを適用」という感じ?


とりあえずこの方向で考えるとして、問題はどうやって信じる対象を決定するか。このパターンだと一度信じたら変更は困難。でも変更可能にしたら情報処理の効率が落ちる。人ではなくもっと細かい部分(〜のプログラミング能力など)を信じるとか?「学者のウソ」を読み終わってからもう少し考えるか。