恥と善悪の共通点と、それによる「突撃」の解釈について

善悪の概念を捨てようと思い立ち、そもそも自分にとって善悪とは何かということをを考えていたら、いつのまにか「突撃」の解釈が数歩進んだので、そこらへんの考察メモ。


「突撃」:「Wiiコンは飛ばない!」とか「リンク制御はありえない!」とか「我が宗教を否定するな!」とかのアレ


まず、「恥」とは学習による防衛機構である。特定の行動に対して「恥じらい」という感情を発生させることで、その行為を抑制する。「善悪」についても同じく、「罪悪感」という感情を発生させる防衛機構(悪の概念)と捉えることができるのと同時に、「正義感」によって行為を誘発する機構(善の概念)と捉えることができる。
「恥」による行動制御はかなり強力で、たとえ大多数に何かを強制されても「恥ずかしいから」でそれに反発できる。同じように考えると、「突撃」が「善」に基づくならばそのような強力な動機付けがあると言える。


つうことで、「突撃」が何故単独でも行われるほど強力なのか、というのは納得した。今まで「正義感」ってのはチープで弱いものだと思ってたけど、こう考えると結構強い。これをして「ヒロイズム」と呼んでいたのだろうか。
残るのは「どうやってソレは善と判定されるのか・善悪はどのように学習されるか」「信仰の揺らぎとの関連性・信仰が揺らぐのは何故まずいか」とか。


さらに、上の「恥」と「善悪」の類似を検証するために「羞恥心はどこへ消えた?」の「恥」を「善悪」に置き換えて読んでみた。やはり色々と共通項がある。で、上のとは別の「動機付け」が導出されたので、そちらもメモ。


例えば、「某TV局員の不祥事が出ると、他の局員の不祥事も疑われる」「〜を支持すると、〜信者といって叩かれる」という例に見られるように、ある団体に所属する(ある団体を支持する)場合、他の所属する(支持する)人間の悪評はその人にも及ぶ。さらに、それが放置されると「やはり自分も不祥事をやってるから甘い処罰なんだ」とか「〜を支持する人間はやっぱりその程度」とか言われる。そのため、「自分に危害が及ばない」ようにするためには、「厳格な処罰」が必要になる。
ネット以前では小さい世界で声を上げる程度が個人にできる「厳格な処罰」だったが、ネットにより「空間的な制限」「社会的な制限(匿名性)」が解除され、「厳格な処罰(声を上げる)」だったものが「過度な処罰(たくさんの人の声が集中する)」になってしまい、それが結果として「突撃」となる。という解釈。


要は、「放っておくと自分にも危害が及ぶから」という理由、かつネットによるブーストで「突撃」化するという解釈。たぶん、「恥」の場合と同様、意識はしてない。派手にすっころんだり、多数の前で褒められたりして「恥ずかしい」とは感じても、「これを放置すると自分の評価が危うくなる」とは考えないのと同じ原理。


もう少し練ればもっと何かできる気がする。共感性(他人の失敗を見て自分も恥ずかしくなるとか)を使った説明とか。またしばらく「羞恥心はどこへ消えた?」を読んでみる。
あと数歩進んだらひとまず検証しやすい形にまとめたいところ。


こう考えると、「突撃するな」っていうのは「恥ずかしがるな」というぐらい無意味?
逆に考えれば「恥」を軽減させる手法の応用で「突撃」を軽減できる?でも他者への適用は難しいはず。