芸術エンコーディング

クビキリサイクル読書中。芸術の話が出てきたので、現時点での考えをまとめとこうと思った。のでそのメモ。


まず最初に、自分にはまだゲージュツはわからない。そのため、「ゲージュツがわかる人」の意見からの推測。たぶんあの本を読んでから実際にゲージュツを見たりしてこの先変化するんだろう。これはその前の段階での考えのメモ。


まずベースとなる考えは「芸術とはエンコードである」である。である。である(なんかバンパイアハンターとかに居たなこういうキャラ。まぁそれはおいといて)。「芸術とは暗号化技術である」とかでも「芸術はコンバータである」とかでも構わない。要は、「芸術とは、感情や思想を、絵画や彫刻などに変換する技術である」という感じのこと。この考えは「芸術とは感情などを絵という形式で表現する」みたいなことを数年前に聞いてから徐々に形成されていった考えである。


「芸術はエンコードである」ならば、その芸術のもともとのナニカを取り出すためには「デコード」(復号化、逆方向のコンバート)が必要になる。つまり、「描かれたものそのもの」には意味がなく、「描かれたものから取り出したもの」に意味がある。これは、暗号化された01列には意味がなく、復号化されて初めて意味をなすということに対応する。「こんな適当な絵なら自分にも描けるよ」というのは「こんな適当な01列なら自分にも書けるよ」というのと同じであり、おそらくは本質を取り違えているのだと推測する。重要な情報は「暗号化される前のもの=復号化された後のもの」であり、「暗号化された後のもの=復号化される前のもの」ではない。


つまり、鑑賞する側には「デコード」の技術が必要になる。これは「実際に自分で芸術作品を作る=エンコードを学ぶ」ことによってそこからデコードを逆に学んだりすることによって学習できるらしい(詳しくはまだ知らない)。そのため、「見る側を選ぶ芸術なんて芸術じゃない」と言われたりする。たぶん「見てわからないゲームはゲームじゃない」みたいなもんか。囲碁とか見てるだけじゃ多分基本ルールもわからない。


で、「見る側を選ぶ芸術は芸術じゃない」ならば、「見る側を選ばない芸術」というのは存在するのか。たぶん存在する。音楽なんかがたぶんそうだと思う。それは「自己解凍」に似ている。デコードが観測者側で行われるのは同じだが、前述のデコードは「復号化の方法を観測者が知っていないといけない」のに対し、自己解凍型は「知らなくていい」。自己解凍の方法はいくつか考えられるが、音楽で言うならば「その音階・音程・曲調を聴いた時に発生する感情」とかを利用する方法あたりが考えられる。芸術作品そのものがその情報を説明するわけではないので「自己解凍」というのは不適切かもしれないが、構造理解のための例えだし、自分の使う例えはだいたいそんなもんだ。


以上、「芸術はエンコードだ(他人からの受け売りの改変)」と「自己解凍型の芸術(今朝思いついた)」のメモ。