「レール」と「例」をかけたタイトルにしたかった

「レールの上を走る人生」とか「別にレールは嫌いじゃない」とか言うときの「レール」ってなんだろな、というあたりの私見。他の人ならたぶん「圧力」とか別解釈をするのだろうなと思いつつ。


「レールの有無」は「進みやすさ」に影響する。「レール」があった方が進むスピードは上がる。また、進んでる際に問題に突き当たる可能性も(レールなしに比べれば)低くなるだろう。では「レール」で例えられる「ソレ」は何かと考える。おそらく「ソレ」があれば何がしかのスピードが上がり、問題に突き当たる可能性も低いのだろう、と考えたときに「教科書」を思いついた。
「教科書」とだけ言うと「問題そのものじゃん」みたいに思われるが、実際にそこに載っているのは「問題の解法」だ。面積の求め方や数列の求め方など、「自力で0から考える」のに比べれば「問題解決までのスピード」は上がり、解法はすでに書いてあるので「問題に突き当たる可能性」も低い。また、「レール」のデメリットである「体力がつかない」という点も「自分で解法を求める力がつかない」という点で似ている。
良く考えれば、この考えは「教科書」に限らず「本全般」についても言える。あらゆる「本」は「何らかの情報を形にしたもの」と言う事ができ、ならばそれによって上がるスピード、解決される問題などが存在しうる。さらに突き詰めれば、「本」に限らずあらゆる「情報」はその性質を持つ。つまり、自分にとって「レール」とはすなわち「情報」だ、という結論に至る。


あらゆる「情報」は「レール」である。「専門知識」もまたレールであり、そこに行き着くためには、「基礎知識」というレールを乗り継がねばならない。「宗教」もまたレールであり、ここからは遥かに遠く、そのレールに乗る気はないし、きっと自分では乗れない。「ブログ」もまたレールであり、そこにあるのは一つの思考パターン。「雑記」もまたレールであり、それは途切れ途切れだが、偶然に何かをつなぐ。


「レール」は選べる。どの「情報」を使うか、どの「情報」をつなぐか、どの「方向」に進むか。それは選べる。「選ばない」ということも選べる。歩くことでまだレールでは行けない場所に行けるかもしれない。行き着いた先は、あるレールを選べば簡単に来れたかもしれないし、そのレールを探し出す時間を考えれば歩いた方が早かったかもしれない。


「レール」があるからといって、楽に先に進めるとは限らない。坂になっていて、それなりの力がいるかもしれない。場合によっては歩いた方が早いかもしれない。遠回りでもゆるやかなコースを選んだ方がいいかもしれない。レールが雑で、上手く進めないかもしれない。実は選んだレールは別方向に通じてるかもしれない。


で、そう捉えたとき、自分はレールにどう接したいのかと考える。「全てのレールをまわってみたい」のか「自分でレールをつくってみたい」のか「既存のレールを整備したい」のか。ネットによってあらゆる「レール」は解放された。しかし、ネット上の「レール」はまだ不完全だ。「量」から見ても「質」から見ても不完全だ。「改善の余地が十分にある」という点において不完全だ。
いつしかこの「不完全」はなくなるのかもしれない。そうなればもはや「改善」という行為自体が困難になる。しかし、今はまだ「改善」への敷居は低い。「改善」が出来るというのは、この時代に産まれた人間の特権とも言える。ということで、何がしかの「改善」をやった方がお得?とか思いつつ、「〜ができるのは今だけ!」というのに流されるのってどうなのよとか思ったり云々。そろそろ疲れてきたな。


今現在、趣味でやってる「説明技法」は「レールの整備」にあたる。すでに「目的地」に達するための「レール」は存在するが、それを「使いやすい」と思っていないために、自分で「使いやすい」と思う「レール」を作成するという行為。「既存のレールで十分」という人間には遠回りに見えたり不十分に見えたりするだろうな、とか思いながら。
この「整備」が目的なのか、あるいはレールの作成に慣れて別のことをやるつもりなのか。
まぁどうでもいいか。結果を見たあとに判断すれば。