未分類の雑記

・睡眠時間7時間くらい。眠いなぁ。今回は、床につくのが遅れた。今の自分だと、どうにも「自分を律する」というのが苦手だ。


・いまさらながら「ハッカーと画家」を読書中。ちょっと読んでの感想は「なんだ、ただの俺か」。

(前略)プログラムコードの行末にスペースを決して残さない。それがあったからってプログラムの意味は変わらないし、どうせ見えないのだが、ただそれがあるということが彼には我慢できないんだ。

の部分とか、ニヤニヤしながら読んでしまった。楽しい。読みながらところどころで考え事をしてるので、なかなか進まない。来週までかかるんじゃなかろうか。


・「第1章:どうしてオタクはもてないか」の学校の記述って、日本の学校のことかと思えるほど似ている。中学校あたりでこの本を読んでれば、もっと早くにドロップアウトする決心がついたんじゃなかろうか。


・「第2章:ハッカーと画家」を読んで、自分と同じように「まずとにかく早くプロトタイプを作る」というスタンスのプログラマが結構多いことを知る。「プログラマはそうあるべき」とまでは思わないけども。これを読んでると、本当に「それって俺のことじゃん」と思う。

私は大学院にいたころずっと、もっと理論を知らなくちゃならないという思いが心の底にあって、居心地の悪い思いをしていた。期末試験から3週間後にはすっかり全部忘れてしまうことを、ずいぶん後ろめたく思ったものだ。

とか、「それなんて俺?」だもの。よかった。ただ単に自分の記憶力がないだけかと思ってた。
あと、派生で「音楽とマルチスレッド」について考えた。自分はマルチスレッドについてまだ詳しくない。せいぜいデッドロックとかのデメリットや、マルチCPU時の高速化のメリットとかの、基本的なことを知っているだけだ。で、スレッドを一つのメロディと捉えると、マルチスレッドとは複数のメロディが同時に流れているものだ。「デッドロック」などのデメリットは、「不協和音」に似ている。であるならば、逆に「対位法」のように「和音=シナジー」を得るようなデザインパターンってなんなんだろう、とか考える。が、こっから先は知識不足過ぎる。


・「第3章:口にできないこと」はmedtoolzさんを思い出しながら読んでる。ここで出てくる「異端」って、はてブで言うところの「これはひどい」だよなぁ、とか考える。
例えば「これはひどい」の典型例として「無知なる思考」がある。「無知なんだけど、思考して結果を書く」という行為に対する反応。無知ゆえに「間違って」おり、「間違って」いるがゆえにそういう反応を引き起こしたりとか。そう考えると池っちはもしかしたら観察に足る対象なのかもしれないな、とか考え始める。ただ、池っちの場合は「無知」よりも「態度」の問題な気がしないでもない。はてブに上がってくるやつしか見てないからだと思いたいところだが。
とりあえず、「炎上」=「問題の存在」=「未解決の問題」=「解決するビジネス」という発想があるな。「これはひどい」というラベルに統一されてることで、発見自体は極めて容易だ。


・「ハッカーと画家」が日本語のブログとして誕生してたら、「あぁ、こいつが俺のメインアカウントか」とか思いかねない。あぶないあぶない。


・解釈は一意には決まらない。「コンテキスト」によって、同一の事象でも解釈は異なる。だから、他人の「解釈」に興味を持ち出してるのかな、と思う。「解釈の差」から「コンテキストの差」を推測し、その「差」を自分の経験なりエミュなりに組み込みたいのかもしれない。かもだが。


・処理能力は問題ないレベルまできたが、今度は視野の狭さが目に付く。ちょっとまわりが見えてない。もう少しまわりの流れが見えてないと困る。


・少しずつわかってきた気がする。「システムの中でパーツとしてどう振舞うか」ではなく、「このシステムを使ってより効率よく目標を達成するにはどうすればよいか」をメインに持ってくる感じ。


・もっと単純に、今日持ってきた「冷凍まくら」のおかげかもしれない。思ってたより熱を吸収してくれる。席が席なので、PCの廃熱で暑い。


・ちょっと嫌な事実を認識する。いやいや、そんなはずはない。そこまでいくと、自分の許容範囲を越える。
→少しまとまった。この説明なら、許容できる。「事実を認識」というよりは「事象を観察」というべきだった。「脳内劇場」の延長上の話。
観察された事象は「脳内劇場に出てるやつの方が、自分より客観的に判断してくれる」というもの。「えぇぇぇ、だってあいつって俺じゃん。俺とあいつの処理能力が違うなんておかしいじゃん。さすがにそこまでいくと"俺って残念だなぁ"とか笑ってらんないじゃん」という反応。そもそもは「あぁ、あんまり考えが進まないなぁ。よし、じゃあお前に任せる。俺の代わりに考えてくれ」という「ボケ」であり「フリ」だったのだが、「アレやってないよ→あぁホントだ」「アレはどうする?→アレはまぁ後でいいよ、そう言われたし」とかなって、「いや、ちょっと待て。なんで俺にできなかったことがお前にできるんだ」から、上の状況に至る。
で、その事象をなんとかして納得できる範囲に収めるべく、「あいつと俺では価値観や思考能力は同じだが、コンテキストが違うから別の結論を出せるんだ」とか色々考えた挙句、「そもそもアイツらって、エミュじゃね?」という結論に至る。上のやり取りでも、自分の思考のリソースをアイツはくっていない。つまり、「エミュ」と同様、ただのハッシュマップだかニューラルネットだかに過ぎないんじゃないか、ということ。「エミュ」が「不特定多数の観察結果」として扱われるのに対し、「アイツら」は「特定の個」として扱われてるだけじゃないのか、と。
まぁ、この結論はこの結論でとてもアレだが、「自分とアイツに能力の差がある」という結論はイヤなので、こっちは受け入れよう。


・そもそも「自分」と「アイツら」を分けて論じるから、頭が残念に見えるんだ。やっていることは「自問自答」の「自問する人」と「自答する人」を分けているだけであって、極めてフツーなことのはずなんだ。別に「多重人格」ではないんだ、広義(相手によって態度を変える)においても狭義(人格ごとに記憶が異なる)においても。ただ単に、中学生の頃に一般に発生する「自分の中にたくさんの自分が居る感じ」が長期間持続しただけなんだ。
エクスキューズ終了。


・そいや、上の「自分がたくさん居る感じ」ってのが治まったのは会社に入ってから2〜3ヶ月したあたりだっけ。結局、「リアルの環境が変わらないと、そういうのは治らない」というありきたりな結論になってしまう。