バンブラまわりの雑記

バンブラやってて、コーディングに似てる部分をいくつか見かける。


・一度ダメになった曲を、最初から作り直して良い感じになってきている。これって、「ダメになったプログラムは、それを改善するより作り直したほうが良い」というのに似てるなぁ、と。仕事でもなんでもないから、時間がかかるのは問題ない。むしろ、そういう楽しい時間で占められるのならば良いことだ。


・で、ダメになった部分でも参考にしたいことはあって、コーディングの場合はそれをコメントアウトで残しておける。これは、バンブラだと「音量0」で実現できる。


・とりあえず数をこなして使える手を増やしてるが、それはTCGで言えば「とりあえずカードを増やす」に当たるのかなと思う。趣味のコーディングの方では「目的のために知識を得る」という、TCGで言えば「目的のデッキを構築するためにカードを集める」にあたる方針で進めている。必要なカードだけ集めて、それ以外は無視する方針。それに対して、バンブラの方では方針を特に決めずにまずはカードを集めている。手持ちのカードだけでたまにちゃんとしたデッキができることがあって、それがつまり手持ちの知識だけでちゃんとした曲が出来るということ。


・よくよく考えれば、バンブラは色々な編曲を聴けるわけで、編曲の勉強には最適じゃないか。編曲のパラダイス。学習のユートピア。原曲を知ってる必要はあるけど。


・以前考えた「自動編曲プログラム」は、作ってる人間にとっては楽しいだろうけど、もし完成したら他の人の編曲する楽しみは薄れるだろうか。例えるならば「ドラゴンボールがどんなに離散していても結合できる装置」を作ってしまうような。「集める楽しみ」はなくなり、一度願いを叶えて離散しても、集める必要はない。新しいフェイズへの移行。ミクのアレもそういうことなんだろうなぁとか。
他の例えで言えば、「車が出来たから飛脚は必要ないや」的な。技術の発展による必然的な文化のシフト。「飛脚を存続させるために、車なんて作るな」というのは恐らく間違ってるような気がしなくもないではない(これはこれで考えることはある)。少なくとも、構造的には「既得権益を守るために声を上げる人」と大して変わらない。はず。
今まで通りでは「価値」は見出されなくなる。受け手が求めるのは「弾いてて楽しい曲」だったり「自然な発音のミク曲」だったり「とにかく願いを叶えること」だったり「荷物を届けること」だったり。「過程」を楽しむ人は確実にいるけど、同様に「結果」を求める人もまた確実にいる。そして「結果」だけを求める人にとっては「誰かが時間をかけて頑張って作った」場合も「機械で簡単に作った」場合も、「結果」が同じなら同じこと(「誰かが頑張った」というラベルという結論を求めるならば違うけどとか云々)。
そんな状況下で「承認欲求」ベースでやっていく人は大変だろうなぁ、と思いつつ編曲している。結果を「ついで」として考えないと無理だったりするんだろうか。過程を楽しめないとつらそうな感じではある。