雑記:未分類

・睡眠時間8時間くらい。まぁ寝起きは悪くない。寝付くのは少し遅れたが、0時頃には寝てたはずなので、日曜にしては良かったのではなかろうか。


・最近TVを見てないのでわかんないんだけど、EXILEってもしかして人数が3桁に突入とかした?


Twitter見てて驚いたけど、亀田とかってまだあれこれやってたんだ。


・久々に「自分の言語定義」=「一般の言語定義」で堂々と語る人を見れて面白かった。自分の中で起こる反発がハンパない。このレベルの人間を許容できるようになれば「相対主義者になった」と言えるんだろうけど、今の時点では「無理」だな。「難しい」ですらない。この前も自分は何かに反発してた気がするし、長い道のりだなぁ。


・結構すぐに反発は落ち着いた。当面は「反発→落ち着くのを待つ→落ち着いたらホゲホゲ」という感じかなぁ。ホゲホゲで何をすれば良いのかよくわからんけど。そりゃまぁ「自分の言語定義こそが正しいと主張する人」なんて珍しくはないしなぁ。そういう人間が「嫌い」なんだよなぁ。「嫌い」=「感情」=「学習結果」である以上、そう簡単に覆せるものでもないし。
むぅん。しかし、「嫌い」=「学習結果」なわけで、それがなくせるとも思えないんだよなぁ。相対主義ってこういう感情の発生まで抑制できるもんなんだろうか。あるいは「嫌い」という感情は発生するけど、まぁそれはそれとして、そういう人間も居るよなーという感じで受け入れられるんだろうか。特定の仏教徒だったら感情すら発生せずに受け入れちゃいそうだけど。うん、まずは「相対主義者ってこういう時にどういう反応をするのか」から調べてみるか。


相対主義の調べ中。
ひとまず相対主義 - Wikipediaから。
うん、概要はよくわかる。「コンテキストが違えば結果も違うよ」ということだ。ここはすでに受け入れて馴染んでいる。
そいや、「価値=解釈」の考えも相対主義か。となると、そりゃ絶対主義とは逆になるのか。
おう。そのまま「相対主義と寛容」というのがあるぞ。なんか小難しい事が書いてあるので、ひとまず現時点での自分の状況をメモしてから読もう。
「コンテキストが違えばそりゃ結果も違うに決まってるだろうよ」というのがベースにありつつ、それはそれとして「俺が不快だからお前のことが嫌いだ」という行動原理が働いている。うん、シンプル。
ふむ、面白いな。「相対的な相対主義」か。「相対主義も所詮は一つの考え」ということで、「相対主義も間違ってる可能性はある」と考えるのか。ここまで極端になれたら他の価値も「とりあえず観察・吟味してから」とかになりそうだな。コストが高くつきそうなのでイヤはイヤだけど。
それはそれとして、「どうすれば寛容になれるか」という方法論みたいなのはないな。強いて言うなら「相対主義を徹底すれば、その先に寛容が自動で発生する」みたいな感じか。
あぁ、「否定説」を見てようやく思い出した。「全てのことを正しく認識している人間など居ない」という前提をもっとメインに据えれば良さそうだ。


・せっかくだから、「全てのことを正しく認識している人間など居ない」のことをあれこれ考えて、自分に定着させておこう。
まずは、「全てのことを正しく認識している人間など居ない」という命題の前提条件から。これのベースになっている考え方は、「まだこの世の全ての解析は済んでいない(故に正しく全てを知る存在など居ない)」とか「たぁが数十年で吸収できる知識・知恵の総量など知れている(全てを把握するリソースを誰も持ってはいない故に、全てを把握している人間など存在し得ない)」とかに準拠する。これはある程度「一般的な概念」と呼んで良いレベルだと思うし、自分は十分に納得している。ここでは「自分の寛容性の向上(つまらんことでイライラしたくない)」という目的が重要なので、とりあえず自分が納得していれば良い。ということで、この命題に関しては「疑う余地もない」という感じだ。相対主義を貫くなら、これも疑わないといけないが、あくまで自分の目的は「つまらんことでイライラしたくない(自分の慣用性の向上)」なので、そこはどうでもいい。
で、ここから何が導出できるかと言えば、「人は何かしらのミスを犯す」ということだ。「何もしない」という「行為」まで含めて、人は何かしらのミスを犯す。厳密には「導出」というよりは「確率的にありえない」と呼ぶべきだが。ちゃんと厳密に解説する場合、「全てのことを正しく認識することはできない」→「何かのことについて正しく認識していない」というところまでが「導出」で、「正しく認識しているものだけに関わる確率」というのが無視できるほど小さいであろうというところが「確率」。まぁちゃんとした計算式などないので、判断者の「体感」に依存するわけだけど、自分の場合は「まぁ半分以上が間違ってても別におかしくはない」という体感なわけだ。お、ここから持っていけそうだぞ。つまり、「人(自分・他人)の行動の半分以上はミスである」と自分は考えることができる。ん、若干の飛躍はあるがまぁ自分の了承できる範囲だ。「行動」の言語定義が不明瞭なのが気になるが。「呼吸は行動なの?」的な。「能動的な行為」にするか。あるいはさらに具体的に「文章化」にしちまうか。
うん、となると、「他人の文章を見るときは、ミスってると思いながら読め」という感じかな。「間違い」→「修正せねば!」とか「間違っているかどうか検証を」とかいうのはメンドーなので、あくまで「ミスってんだろうなー」と思いながら読んで、たまに「あれ?これのどこがミスってんだ?」と思うくらいの感じで。
うーん。それだとなんか情報の摂取がうまくいかないんじゃないかとか思うが。しばらく試してみるか。「特に指定する気も検証する気もないけど、まぁ人間だから何かミスってんだろ」的な気分で文章を読む、な。


・違うかなー。「非許容」の主要因はおそらく「価値のコンフリクト」だもんなー。「その価値を受け入れると、他の価値とコンフリクトを起こす」から「非許容」によって弾く、というのが現時点での推測だもんなー。
そう考えると、「どの価値観も許容する」という意味において「相対主義」はやっぱり良さそうに見えるんだよなー。


・文章を論理式にコンバートする難しさは、実際にやってみてわかっていたつもりなんだけど、「うわぁ、これを考慮するのはめんどくせー」という例を思いついてしまった。
「自分はクソではあるが、クソではない」という文章。もっと良い例があるとは思うけど、要は「(Aという意味で)ホゲではないけど、(Bという意味での)ホゲではない」という文章。単純に論理式に直すと「Aかつ、not A」。つまり矛盾。
この矛盾を回避するには「表層意味論(というか単語解析?)」ではなく「深層意味論」のレイヤーで論理式を展開せざるをえず、深層の意味とはつまり「コンテキストによる表層の解釈」なわけで、そこに個体差とかそういうのが入らざるを得ず、「一意な解釈」は求めるべくもない、という結論。
まぁ要は「ろくに言語定義もされてない文章の論理式化はムリ!」ということで、「まぁ言語定義されてないんじゃ仕方ないよなぁ」とは思うものの、「同じ単語でも言語定義の違いを意識しないといけないのかぁ」というあたりが面倒。まぁこれはこれで矛盾の指摘くらいには使えるか?そこから相手の言語定義を引き出せれば良いのか?


・そういえば「辞書を引き合いにして、自己の言語定義の正当化」ってのも久々に見たなぁ。「美しい日本語!」みたいな論調のやつで見て以来かなぁ。


・5つくらいのライブラリやらツールやらを引き継いで、なんとなくそれを自分はイヤがってるっぽい。「やはり自分はツールやライブラリ系は向いてないのか」とか思ったが、それ以前に一度に5つのライブラリとかを引き継ぐもんなのかな。自分の学習初速度を考えるとないなーという感じだけど、他の人は平気だったりするのかな。
このくらい無理矢理じゃないと自分は学習しないのでまだ現状維持は続けるものの、意味不明な問題がこれからもずっと起こるようならつらいなー。


・あぁ、そうだな。「よくよく考えれば」で「良く」&「さらに良く」考えたことはないな。ただ単にずっと考えて思いついただけだ。まぁ辞書を見る限りは「良く」じゃないっぽいけど。まぁでも「十分に」とも言いづらい。


・難しい。「きっとミスってるだろう」と考えながらものを見るのが難しい。「あら探し」とか「全てに疑問を持つ」とかならわりとらくちんぴょんにできるんだけど、「特に修正する気もない」「特に検証する気もない」「でもミスってるだろう」という3つを同時にやるのが難しい。


・うーん。文章を読む時に「これは正しいんだろう」と思ってた方が楽だし、それゆえに正しくなかった時(というか自分の内部でコンフリクトが起きた時)に反動で強い反発が生まれるんだろう。
戦争とか政治絡みの話題なら「正しくないかもしれない」という心構えは勝手に行われるし、ある程度の疑問視・脳内検証は自動で行われる。ただ、もっと個人的なポリシーだの遊び方だのの場合、その手の心構えができてない。
んん?そうか?そもそもの心構えができてない気もする。だんだんしんどくなってきた。そもそも今日も調子はそんなに良くないんだ。早起きできたから見過ごしてしまうけど。


・そもそもコンフリクトなのかなぁ。自己矛盾なんてどこでも見かけるような代物だと思うけど。さっきの例みたいな「表層の矛盾」が観測されるだけで、「深層の矛盾」が問題なのかなぁ。うん、現在保持するコンテキストで受け入れられないってことはつまり深層の方だよなぁ。


・夕方になったので、もう一度考えるか。
現象を簡単にまとめると、「"自分が正しい"と言っている人間への反発」か。
同じになりそうだから置いといて。もう一つ。
「相手の誤認識を正そうとする行為」だと捉えれば、それ自体は「学習結果の伝播」の観点から悪くもない行動なんだけど、そのための手段が攻撃的になってるのがあれだなぁ。
そうだよなぁ。「学習結果の伝播」に関しては趣味で「解説技法のあれこれ」について考える程度には強い動機付けになってる。こっちかなぁ。


・また別の見方をするなら、「こういう態度の人間とは、ちゃんとした議論は望めない」というあれと同じ「態度」なので、反発してる感じ。議論ができない人間もまた珍しくはないんだけどなぁ。珍しくない=学習機会が多いということだから、もう少し慣れていてもおかしくないはずなんだけどなぁ。さっき見た「蛆虫」はわりとスルーできたんだけどなぁ。


・色々とごっちゃになりすぎだ。
そもそものそもそもとして、「めんどいのが嫌い」というのがある。
そして面倒なことの一つとして「いちいち自分と違う価値観に反発すんのがめんどい(反発してどうなるわけでもないし)」というのがある。
この「面倒」をなくすために、「自分と違う価値観を許容できるようになればいいなー」という手段を選んでるに過ぎない。寛容さはあくまでただの結果だ。
となると、「反発が起こってもまぁちゃんと受け入れられるようになればいい、わけあるかー!そもそも反発が面倒やっちゅーねん!」ということになる。まぁ受け入れ回数を増やすことで、反発を軽減できるのではないかという目論見もあるわけだけど。
という状況なので、「いかに(自分の中で起こる)反発をなくすか」というのがこの件に関しての最上位目標となる。


・そうか。「この件に関して」とかつければ、最上位目標とか設定できるのか。まぁ「この件」という限定への妥当性の問題は残るけど。


・さらに逆側に回ってみるか。「反発する条件」を自己に定めてみるか。「自分の邪魔をするやつにだけ反発する(ぶち壊す)」という風に設定して、それ以外の反発は「まぁ別に俺の邪魔をしてるわけじゃないし」で済ませる方法。こっちの方がまだ楽かなぁ。これも後付け補正になるので、即効性はないけど。結果的には自分のやることに専念できるわけだし、悪くはなさそう。こっちにするか。
じゃあ、今日は反発を覚えたものを思い出しつつ、「別に俺の邪魔をしてるわけじゃないし、いっかー」と反応する練習をしつつ終わる。


・TVを見てないので「そろそろ民主党支持も終わりかな?」とかがよくわからん。直接的には「マスコミがどういう方向に仕向けてるか」からの推測で、間接的には「それを見てエミュレータはどう反応するか」からの推測。現状ではどっちもムリだな。この前の仕分けとやらも見てないし。


・「site:amazon.co.jp」で次に読む本を検討中。「朝まで生テレビ」の本があるのか。しかも「愛国心国益とは何か」という感じのが。色んな視点を一気に得られるという点では良いのかなぁ。てか、こんな議題になる程度に「愛国心」と「国益」の定義は個人差があるのか。


LDRの書評系ブログを一つ外しつつ、「そういえば、"自分は勘違いしている"という自覚を持つのは難しいのだろうか?」という疑問を抱く。
たとえ「全てを知る」ことはできなくとも、「知らない部分」について「知らない」ということがわかるだけで、かなりの問題は回避できる。が、観察対象が悪いのか、観察者の注意力不足なのか、そこらへんはよくわからん。ダメな例はわりと見かけるけど。ダメな例は喧伝されるからな。
かといって自分みたいな「知らないものだらけ」でもなぁ。しかもその状態ですら間違えてるし。ムリかなぁ。自分にはムリかなぁ。
とか言ってたら、akkyさんが書評ブログみたくなっとる!akkyさんを外したんじゃないんだからね!


・そういえば「ヤバい経済学」って読んでたな。あれは経済学というより統計学かと思ったんだけど。


・えーと、竹中平蔵さんと森永卓郎さんの主張は逆なんだっけ?


・そうだった。池っちは経済学者じゃんよ。なんか読んでみるか。


・素朴な疑問として、「経済学」って「経済」を対象としてる学問なんだろうか。ざっと見た限り、何かが違う気がするんだけど。自分の「経済」の定義が違うだけか。まぁいいや。ひとまず読むだけは読もう。