今日の雑記

・睡眠時間8時間くらい。昨日は眠気で動けない時間が少しあって、床につくのが少し遅れた。寝つきはまずまず。断続的な起床もそこそこは抑えられたと思う。寝起きもまぁラクではないが昨日までほどではない。


・今朝の段階で特に仕事の方の新規タスクはなし。そろそろROMが出るので動作検証を引き続きしつつ、来週からのタスクの準備とかを進めよう。つまり実作業はあまりない。つまりいつも以上に休憩を意図的にとらないと摩耗する。


・誰かが悪いから悪いことが起こるわけじゃない。何かが悪いから悪いことが起こるわけじゃない。誰も悪くなくとも、何も悪くなくとも、そんな因果とは別に悪いことが起こるクソみたいな世界がこの世界だろう。
無論、悪いものが原因で悪いことが起こることもある。それは事前に抑制できる。しかし同様に悪くないものが原因で悪いことも起こる。その時の対応の方が重要なのだろうなと思うようになってきた。
悪くないものが原因の時に「犯人探し」をすると事態は主に悪化する。おそらくそういう時に行うべきなのは「原因の追求と排除」ではなくて「結果への早急な処置」の方なんじゃなかろうか。ここらへんは自分の中でまだ固まってないが、「犯人探し」が最適解ではないだろうという部分は固まっている。
で、この思考の延長というか、今までの状態からの反動で過剰化したものが以前にも書いた気がする「この世に悪いものなどないのではないか」という感じのことだ。別の言い方をすれば「どうせ何も悪くなくとも悪いことが起こるんだから、何かを悪いということにするだけ理解が遠のくだけじゃないか」みたいなことを思っているようだ。実際にはもっと広くてもっとぼんやりしたことだが。


・眠い。芯から眠いわけではないので作業はできるが、薄モヤがかかったような感じ。残り4時間ちょい+休憩1時間。またずっと作業してしまったのでしばらく休憩。


・そういえば、はてブを全然してない気がする。メインアカウントTumblrに吸収されてしまった感じ。本のブクマは継続して進めていくと思うが、それ以外のものはTumblrの方が良いかなという感じ。


・買い出しは10分くらいで済むので、夕休み前の普通の休憩として買い出しに行ってきた。やはり動くと眠気は多少はなんとかなるな。


・来週からのタスクを少し進めつつ、主に個人の作業やら休憩やらをメインにしていた。残り1時間半。これ以上はいま調べても2日の空きがあるのがつらいので、残りは個人のだけやっていよう。


・なにやら他の人は会社の行事的なもので早めに帰る(というか会社を出る)らしい。自分も早めに帰るかなー。


・自分はまだ誰も救えないのだな。将来的な可能性を諦めてるわけではないが、少なくとも今は助けたい人を助けられないし他の誰であろうと助けられないし自分自身すら助けられない。まずは自分自身を助けるところからだろうな。
これも諦めれば手に入るのかなぁ。大抵の場合「方法」にこだわるが故に「結果」を手に入れられない。いったん両方を諦めることでその結果を達成する別の方法を手に入れることが可能、というのが「諦めると手に入る」ということなんだけど。つまり今であれば「新興宗教みたいな洗脳とかで救いたくはない」という方法への拘泥を捨てれば救う道も手に入るのかもな。


・この雑記が雑記になる前から詭弁についてあれこれ考えておいてこう言うのもなんだが、自分は詭弁には向いてないんだよな。詭弁の構造や効果は理解できる。使い道もまぁわかる。しかし詭弁を使う際に一番重要なのは理屈とかじゃなくて「啖呵をきれるか」なんだよな。度胸とか狂信とかなんでもよいが、「自分自身をブラさない」ことが一番重要。それが自分にはムリだ。


・「子供の頃に殺された友人」と「鬱で死にたがる人」と「人生はトータルで見ればマイナスであること」と。
「鬱の人を救いたい」というのはあくまでも自分のエゴだ。もうちょっと言えば「生きていて欲しい」というのがエゴだ。自分にとってもおそらく相手にとっても「人生はトータルでマイナスである」というのは事実だろうし、であれば死を選ぶことはとても合理的であり(相対的には)幸福なことだ。
そして以前に何度か書いてる気もするが自分は「子供の頃にその母親に殺された友人」がおり、たとえ自分が予知能力を持っておりその事件を阻止するだけの腕力を持ちその友人を養うだけの経済力があったとしてもなおその友人を救えたかどうかがわからない。死なせないことは可能だろうが「実の母親に殺されかける」という事実を認識させたうえでなお幸福を与えるということがどういうことかわからない。つまり「どんなに能力があろうとも自分では救えない人間が居る」ということを自分は事実として認識している。
だから今回の件もたぶん「自分では救えなかった事例」になるのだろう。仮に彼が死ぬことを選びそれを公言したとしても自分にはそれを止められない。「自分には救えない」ことも「死ぬほうが幸福である」ことも理解しているし、「生きていて欲しい」ということは自分のエゴであることも理解しているから。それでもなお悲しいのは彼の本当の望みは死ぬことなんかじゃなくて「そこから抜け出す方法」だと知っていて、それを自分は与えられないから。


・自分が死ねなかったのは単に悔しいからだ。「自分が死ぬことが全体として合理的である」という結論に達しながら、「なぜ自分が死ななきゃいけないんだ」と納得できなかったからだ。あれこれ列挙して「自分は間違っているのか」と叫びたかったのは善悪を知りたかったからではなくただ現状に抗いたかったからだ。
逆に言えばそれさえ諦めることができたら死んでいたのだろう。彼もまた諦めることを選んだのならば死ぬのだろう。
そして自分は少しだけ抗えた。少しだけ自分の居場所を確保できた。それにある程度は満足してしまった。であれば次にそのループにはまった時に選ぶのはどちらだろうか。再び不条理に抗うのか、一度抗えたからもう十分だと思うのか。今の感覚ではよくわからない。どちらを選んだとしても特に驚きはない。


・だからまぁ、この雑記が半年くらい止まったらたぶんそういうことだろう。別に悲観して死ぬわけではない。達観して死ぬのかもしれない。
ただ、まだ数年は生きていたい。ようやく自分の能力を使えるようになった。たとえこのまま体調が戻らないのだとしても、自分の能力が使える限りは死にたくはない。使えなくなったあとのことは知らないが。


・あぁ。「君の人生は君一人のものじゃない」というのが気に食わない理由もわかった気がする。
「死にたい」と思ってる人に、それ以上に「生きたい」と思わせてないじゃないか、と。「生きたい」と思わせるようなことをしてないのに、「生きていろ」だの「生きていて欲しい」だの傲慢だろう、と。そんなの「漫画の練習をしないけえど漫画家になりたい」というアレと同レベルだろう、と。そう思うのだな。
ただ、そうなると逆にそう願う人の無力感も考えることになって面倒くさい。が、まぁともかく気に食わない理由はわかった。対処法はわからないが。


プログラマは自分以外もう帰ってしまったな。残り1時間。自分も帰るか。