土曜〜日曜の雑記

・土曜。睡眠時間8時間くらい+2〜3時間ほどグダグダ。やはり二度寝が困難だったが、今日はそのままグダグダしてみた。これで多少は回復すると良いのだけど。


二度寝できない状況ではやはり狭い脳内で延々と同じことをループしてる感じだった。それが2〜3時間続くわけで、本当に回復につながってるのかはよくわからない。体は横たえてるので肉体的には問題なさそうだけど、そもそも現状ではそれほど肉体の不備を感じているわけではないので、多少強引にでも起きてまた寝れそうな時に寝るのが良かったのかもしれない。まぁ今回のがダメそうなら次で試そう。


・メシも食わぬままいつの間にか15時だな。食欲もないのか。まぁなんか腹には詰めておこう。


・段々と空っぽになってきた。そもそもの生きる理由とか考えたりしてた。まぁ自殺とかはしないと思うが。
とりあえず空っぽだ。昨日までは欲がないことまでは自覚できていたが、ここまで空っぽなのは認識できなかった。認識の狭さが多少解放されていると考えれば回復している兆候なんだろうか。


・なんというか「いまさら中学生レベルかよ」とか思うが、「なんのために生きてるんだっけ」とか「誰を幸せにしたかったんだっけ」とか思ってる。
死なないよな?よな?


・また価値観の再構築が始まるんだろうか。この前あったばかりな気もするし、数年ぶりな気もする。前回はいつだったか。今なら認めたくなかったこともいくつかは認められそうな気がする。


・改めて自分の価値観を見直している。見直したくなかった部分まで見直している。
「言うほど弟達のことが大事だろうか」なんてことも考えたし、実際に実感として本当に重要なのかはよくわからなかったが、しかし「弟達が居ない世界で自分はどう生きていくのだろう」と考えたらちゃんと起きてるのに死の予感が近くなってしまったので、少なくとも自分をこの世界につなぎとめる楔ではあると思う。
しかし改めて考えると楔の数が少ないな。自分をこの世に縛りつける未練は弟達くらいしか居ない。昔はもう少しだけあったのにな。あったんだな、昔は。


・なんか鬱に入りそうな危機感が出てくるな。思考はここらでやめておくか。


・でもどうしても考えてしまうな。なんで今さら生きてるんだろうな。
去年はほぼ何も作れないまま終わってしまったのも一因か。何も作らずに1年が終わってしまった。何もせずに終わってしまった。何もできずに。
本当に何もしてなかったわけではないが、結局ツメの部分が残ったままのやつを今年に持ち越してしまった。やはり「完成」って大事なんだな。プロトタイプなら音とか入れる必要もないし、今年はそこらへんももっと増やしていこう。しかしプロトタイプを作ったところで、それは「何のため」で「誰のため」だ?


・まずいなー。そろそろ寝る時間なんだけど、この思考状態で寝れるのか?


・日曜。睡眠時間5〜6時間くらい+2〜3時間くらい。さすがにやはり寝つきが悪かった。まぁある程度思考はまとまったので良しとするが。


・改めて考えると別に恋人が「欲しい」わけではない。ただ単に償いの方法の一つとして「誰かを幸せにする」というのがあり、さらにその手段の一つとして「恋人を作りその人を幸せにする」というのがあるだけだ。方法は他にいくらでもあるし、そもそも別に欲しくはなかった。
ただ、「方法はいくらでもある」とは言ったものの、現に自分は依然として誰一人として幸せにできてはいない。「今の仕事を進めていれば間接的には他人を幸せにしていることになるのだ」と最近まで思っていたものの、ミリオンヒットレベルのゲームに関わってなお「誰かを幸せにできた」とは思えなかった。身近にそのゲームを楽しんでくれる人が居るにも関わらず。
考えられることは色々ある。「誰かを実際に幸せにしたとして、それは実際には企画がそうなるように考えたからであって自分のお陰ではない」とか、「そもそもゲームを遊ぶのって幸せなんだっけ」とか。そもそも「楽しい」と「幸せ」ってどう違うんだっけ、みたいな。
であれば今の状態の一因は「今の会社に来てしまったこと」なのかもしれないな。しかし早かれ遅かれ気付くことではあった。


・他人を幸せに「したい」わけじゃない。どちらかと言えば「しなくちゃいけない」の方だ。かといって別に強要されてるわけでもないし、であれば「したい」のとあまり変わりないのかもしれない。


・しかしまぁ起きてから考えるとなんか真面目すぎるな。それなりに落ち着いてきたか。自分の体調が「上」の時も別にこういうことを考えていたわけではないしな。
真面目に考えた反動でようやく「そもそも自分は別に真面目ではなかったな」ということに気付くなどした。他人との相対的にどうなのかは不明だが、少なくとも自分の価値観では自分自身は真面目ではないというか。少なくとも「真面目に生きる」というのは「縛られて生きる」というのと同じで、自分のさらに上位の優先事項である「自由」とは相反するものだ。


・そうさな。「自由」はわりと上位の優先事項なのだ。
すでに何度か書いているが、自分にとって「自由」とは「選択肢が存在すること」だ。それも「100万円手に入れるのと失うのどっちが良い?」みたいな見せかけだけの選択肢ではなく、ちゃんとどの選択肢にも選ぶ理由が存在するもの。すなわち悩むもの。
故に「自由」である限り常に「悩み」はつきまとう。「この方針で全て解決!」というのは悩まなくてラクだし判断も高速にできるが、それは自分の望むものではなかったりもする。少なくとも「自由」ではない。
であれば悩んでる現状自体は仕方がないのかもなー。そして別に今すぐ答を出す必要があるものでもない。だが、死ぬまでにはちゃんとやっておかないといけないし、たぶん自分が思ってるよりさらにタイムリミットは近い。母の件も想定より10年くらい早かったからな。他の全てが10年くらい前倒しで来ると思っておいた方が良い。


・昨日は結局部屋の中でぐーたらしてるだけだったが、今日は買い物ついでに散髪も行かないとな。
しかし今になって気付いたが明日は成人式なのな。であれば直前の今日は床屋が混雑してる可能性が高いのか。むしろ明日にすべきなのかな。まぁともかく行きに床屋を見てみて、空いてるようなら散髪してから、そうでなければそのまま買い出しをしよう。


・散髪&買い出し完了。
散髪は想像以上に空いてた。というか、がら空きだったのですぐにやってもらえた。上々。
買い出しも問題なく完了したので、明日はまた部屋に引きこもっていられるが。どうするかな。
ともあれメシを食っていよう。


・にしてもえらくすれ違ったな。まさか単なる買い出しの往復で広場が10人まで行くとは思わなかった。みんな3DS持つようになったんだなぁ。


・散髪中にまたあれこれ考えてたりした。
そういや「何のため」とか「誰のため」とかで生きるのはやめたのだったな。それで生きることの束縛以上に、それを失った時とかそれが揺らいだ時の問題とかがあるし、さらにそれ以上に自分はエゴイストとして生きることを選んだのだった。だから言うなれば全ては「自分のため」だ。自分がやりたいと思った事をやれば良い。ファラリスの御名のもとに。


FFEXも結構すれ違ってるな。散髪とかで30分ほど通路の近くに留まってたとはいえ、単なる往復で4人か。なんか「自分ら以外は買わないだろうなぁ」とか思うタイプのゲームなんだけど、意外と売れてるようだしこうやってすれ違うってことはそれなりに遊ばれてるんだろう。次回作が出れば良いなぁ。
まぁFFEXはすれ違いの"うまみ"がないのが難点だけど。


・ようやく真面目じゃない部分の自分が出てくるようになった。いわく「自分に期待しすぎだ」とのこと。「何かできたはずだ」「何かできるはずだ」「何かできるようになるはずだ」とか思ってるのがダメとのこと。
まぁそれはそれで極端なんだけど、しかし真面目さは自分への期待になり、そして遅かれ早かれ、あるいは大なり小なりその期待は裏切られることになる。なる、というか、なった、というか。
まぁともあれ極端なところに自分の答はない。どっちも自分ではあるが、自分の道はその間にある。


・プログラミングにおいては「つまずく回数」が「デバッグの速度」に直結すると言って良いだろう。結果から原因の候補を出すこと、さらにそこから絞り込むことなどに加え、応急処置であれ誤魔化しであれなんらかの対応をとる手段も増えていく。
おそらく同様に人生においても「挫折の数」が何らかの処理速度に貢献するのだろう。そして自分は圧倒的に挫折の数が少ない。決して成功したからではなく、困難自体から逃げるように・避けるようにしていたからだ。
それの是非はまぁ良い。それより、果たして挫折の数は何に貢献するのだろう。個人的な推測としては「人としての器」みたいな「成長」みたいなそういうものなのではないかと思うのだが。しかし今の自分の挫折の数では推測の域を出ないし、そしてもう挫折を重ねるには歳をとってしまった。決して遅すぎることはないが、10年前に済ませるべき挫折を今からやるのはコスト的にもリターン的にも気分的にも見合わない。


・「他人を幸せにすること」から半ば必然的に「自分を幸せにすること」に辿り着く。
自分が不幸になりながら誰かを幸せにしても相手は喜ばないだろう。逆の立場だったら自分はそう思うし、自分のまわりにはもう自分の不幸を喜ぶ人間は居ない。だから最低でも自分自身を不幸にはしないようにする必要がある。
そして「自分は何をもって幸せと思うのか」もわからないのであれば、他人の幸福も当てずっぽうでしか実現できない。自分の幸せがそのまま他人の幸せになるわけではないが、自分の幸せすらわからないのに他人の幸せなんて他人事を推測するのはムリがある。


・というわけで、どうせ答など出ないだろうと思いながら「自分の幸せ」について考えていた。
が、案外わりと単純というか、むしろ自分の単純な部分がひょっこりと顔を出して「いま持っているものが幸福なんだよ」と言っていった。
それは「ゲームプログラマーになる」という夢を叶えたことであったり、自分にはできないと思っていた「アイデアを出してそれを形にする」という能力だったり、はたまた「定時入りの定時退社」みたいな働き方であったりする。そういう「自分が望んで叶ったもの」が自分にとっての幸福なのだそうだ。
最初に言われた時はさすがに単純すぎて笑ってしまったが、改めて考えるとその通りだなぁとか思う。体調が良い時に感じていた「今のこの状態が幸せなんだ」という認識にようやく近づけた気がする。
そして重要なことは「なくしたものは数えない」「持っていないものは考えない」ということ。どうせ自分にとって人生というのは期待値的にはマイナスだったしこれからもマイナスだろう。だからどこかで合理性を捨てないと生きていけない。そしてそのための手段の一つが「マイナスを考えない・見ない・認識しない」ということであり、それがさきほどの理屈を補助する形になっている。
今なら「生きているだけで丸儲け」の意味を理屈ではなく感覚としてわりと理解することができる。体調が良い時も確か理解できていたはずだが。またここしばらくは理解できない状態にあった。


・しかしなんだな。それだと「死の恐怖」からは逃れられんよな。持っているものが、手に入れたものが、全て無に帰る。手にしたものを全て失わなければいけない。「生きている」という、望んではいないが叶っているものを捨てなければいけない。
その意味ではやはり「生きているだけで丸儲け」の意味を完全には理解できていないと思う。たぶんこの言葉には「今日も生きてたラッキー」的な意味も含まれていると思う。自分はまだ今日を生きていることを感謝できない。明日を失うことを恐怖することしかできない。近いのに遠い。失わなかったからラッキーなはずなのに、失うことの恐怖しか、、、いや、これもまた「失うものを数えない」ということなんだろうか。「マイナスを考えない」の一環だろうか。数えなければ確かに問題ない。他の事ならそれで済む。しかし「死の恐怖」に関しては自分の意思とは無関係にやってくる。突きつけられる。考えざるをえない。


・すでに雑記が長くなってるが、さらに長くなることを書こう。「自分の幸福」について。すなわち「自分の叶えたもの」「自分の持っているもの」について列挙しておこう。
思いついたものから行こう。まずは「ゲームプログラマーになったこと」だな。実際には良し悪しあるが、まぁマイナスは見ない。ともかく「子供の頃からの夢」であり「自分の能力が活かせる職業」であり「他人を楽しませる方面の職業」に就けたことは喜ばしい。
次は「アイデアを形にする能力」かな。ゲームプログラマーと言っても実際にやっている事は「企画が言った通りに動くものを作る」のが主で、案外と「自分でアイデアを出す」ということはしなくて良かったりする。もちろんプログラマーがアイデアを出す職場とかもあるが、場所や人によっては「仕様書が確定してからくれよー」みたいな事を言う人もいる。ともかく、ゲームプログラマーになったこととは別に「自分でアイデアを生み出す」ことができ、それをゲームプログラマーとして「実現する」ことができるのは喜ばしい。これで稼げればもう言うことはないのだが、できてないことは考えない。
次は「弟達が生きていること」だな。できれば弟達が抱えている問題をなんとかしたいところだが、ともあれまだ生きている事は喜ばしい。
別項になったが「両親が生きていること」も大事か。弟達より優先度が落ちるとはいえ、大事であることに変わりはない。母の状態が想定より10年早く悪化してはいるものの、ともかく生きていてくれるし、生きる気力もちゃんとあるようだから良かった。


・いや、マズいな。書いていると「いま持っているものを失った場合」を考えてしまう。自分の幸福を確認するために別のメモにリストアップしていたが、両親の事を書こうとした時に「このリストから削除する時」の事を考えてしまった。
「死の恐怖」が「自分の命を失った場合」だとすれば、これは「喪失の恐怖」か。恐怖するということはそれだけ大事だということでもあるが。いや、「死の恐怖」はそもそも「喪失の恐怖」か。


・仮に失った場合にそれを考えずに済んだとして。いつかは持っているものが「ゼロ」になってしまうんだろうか。その先まだ自分は生きていこうとするんだろうか。自分にとって「生きていること」そのものが大事になれば死にはしないだろうが、あくまで自分の「死の恐怖」というのは「大事なものの喪失」であって、別に「命を失うこと」ではない。あくまでそれは副次的なことだ。自分の命そのものを大切に思える日は来るんだろうか。そういう可能性に心当たりはあるが、それは自分が捨ててしまった道だ。それに結局、誰かが自分を大切に思ってくれたとしても、その人が居なくなってしまえば同じことだ。


・逆に言えば「死ぬことで失うものが怖いもの」が一通り「自分にとって大事なもの」なのだと言えるか。
であれば、「思考ができる自分」と「他人と関わることができる自分」も大事なのかもな。肉体というインターフェースの重要性というか。


・とりあえず当り障りのない「使えるお金があること」とか「使える時間があること」とかを幸福の項目としてリストアップするなど。ここらへんは喪失の可能性が他に比べると低いので恐怖感は薄い。逆に言えばそれほど大事ではないのかもしれないけど。


・難しいなー。ようやく自分の状態を「幸福」として認識することができそうになってきたのに、「喪失の恐怖」がついてくる。そして「喪失する前に」みたいな「焦燥感」も出てくる。
しかしまぁこの方向を進まないといけないんだろう。というか大抵の人間はこの程度のことはとっくの昔に経験済みなんじゃないかとすら思えてくる。
そんでまぁ重要なのは、これが「他人を幸福にする場合」にも発生するってことだよな。他人を幸せにしてそれで終わりじゃないんだろう。こっちの世界にはハッピー「エンド」なんてものはないんだろう。幸せにした後の「喪失の恐怖」や「焦燥感」をどうするかまで考えないといけないんだろう。だからまずは自分がこれとどう向き合うかだなー。


・「諦念」か。まぁそうだな。それしかないのかもしれない。少なくとも自分にとってはそれ以外になさそう。
結局はいつか失うのだ。死から逃れられない以上、それは必然だ。だからといって恐怖感や焦燥感が消えるわけではないが、「そういうものだ」という諦念で覆い尽くすことはできる。逆らうのではなく、かき消すのでもなく、受け入れるしかないんだろう。恐怖も焦燥も。受け入れたうえで幸せを噛みしめるのだろうと思う。


・リストアップを見返してみたけど、なんというか。「お金より時間が大事」ってのは変わらないが、しかしリストから削除するのが怖くて結局書けなかったことを考えると「それらよりも遥かにまわりの人間が大事」ってことなんだろうな。
人が死ぬのは色々と見てきたし、慣れてきたという自覚もあるのだけど、別に慣れたからといって大事じゃなくなるってわけじゃないんだな。


・散髪したおかげで髪の乾きが早い。そろそろ寝られそうだし、寝る準備するかな。そして雑記は長くなりすぎて平日に書くのに支障が出そうなので、今日のうちに上げてしまおう。