今日の雑記

・睡眠時間7時間くらい。今回は寝つきが悪かった。米+昆布豆(砂糖が結構入ってる)による血糖値の上昇あたりが原因?そっちは睡眠の質の話だっけ。昨日より寝起きも悪かった。昆布豆は美味いけど、ちょっと自重しよう。


・「事前にちゃんと考えてプログラミングするとかムリ」という話をちゃんと説明する方法を考えていた。
プログラミングは「仕様」だけでなく「常識」もコーディングする必要がある。つまり、「レバー方向に移動」までは仕様で書かれていても、いちいち「移動方向を向く」までは書かない。しかしどちらもプログラマーはコーディングする必要がある。
そして「常識」は事前に認識することが極めて困難である。そのため、プログラマーは作ってる最中に悩んだり認識不足のためにバグを出したりする。つまり、「事前にちゃんと考える」程度では「常識」を捉えることなどできない、ということが言いたいのであった。
ちなみに、「常識」を捉えるために必要なのは「経験」であり、初心者にとって必要なのは「考える事」よりもむしろ「前に進んで失敗すること」だと思う。


・健康とは「自然な状態」だと思っていたけど、むしろ「人工的な状態」だよな。
病気や寿命といった「自然に起こるもの」に対して、薬や意図的な運動などにより「人為的に修正」する。
そう考えると、少しは健康というものを受け入れられそうな気がするし、本能優先主義者としてはやや自然寄りの方が望ましい気もする。


・責任についても考えていて、ようやく「責任を取るとは、マイナスを上回るだけのプラスを生み出すこと」というあたりに辿り着いた。書いてみればひどく当たり前だけど、数値化できない概念での話だからそんな単純な話でもない。
たとえば数値化しやすい「万引き」の場合、「バレたら戻すだけで±0」であれば「ノーリスクで犯罪が犯せる状態」であり、システムとしては悪い。つまり、「マイナスを補填するだけのプラス」では不十分で、ちゃんとマイナスを上回る必要がある。
では、数値化できない状態ではどうすれば良いかと考えると、これが難しい。
そもそも、今の日本では「一度犯罪を犯した人間は、一生細々と生きるべき」という、マイナスを無限大に見てるんだかプラスを0に見てるんだかわからないけど、「償っても償わなくても同じ」という状況なのでシステムとしては最悪。そういう環境なので「マイナスを上回るプラスを」と自分が思っても他人はそう思ってはくれない。どんなにプラスを産み出そうともどうせマイナスを上回れないならプラスを生み出す意味がない。
それでも自分の中だけでやる場合を考えてみる。例えばデマをRTしてしまった場合。マイナスをゼロにするためにやることは、「自分のRTを削除する」「さっきのはデマだったと伝達する(代わりの別のやつのRTも加えるかもしれない)」あたり。ここまではただの相殺なのでゼロ。
ここからプラスに持って行きたいのだけど、どうするのが良いのかわからない。「不用意にRTしないように自重する」というのは結局行動してないからゼロのままなのか?あるいはさっきまでしていた不用意なRTを「しない」と判断して行動を変化させたのだからプラスなのだろうか。少なくとも「不用意なRTはずっとやる」ではダメだと思うが、本当にダメなのか。感情的にはそう思うが、それは論理的に妥当なのか。「情報を吟味して正しそうなものを積極的にRTする」というのはプラスなのか?その中に再びデマが含まれている可能性はあるが、それはどうするのか。また、一度騙された人間の積極的なRTは信用されるのか。むしろ信用されないからこそ他人に吟味を促すのか。
という感じで、責任の取り方の「方針」までは決まったっぽいけど、その先の「具体案」まで落とし込めない。もう一つ別の軸が必要なんだろうか。


・特に急ぎの用件はないので、今日はゆるゆると作業しよう。1時間ずつ仕事と趣味で切り替えられたらベストかな。


復氷: 数理倫理学序説で紹介されてる本が面白そう。「事故の発生率は0にはできない。しかし気にしないわけにもいかない。ならばどうするか」という問いについての本だと思う。
引用されている部分から考えると、「現実に自動車事故で死ぬ確率」など、ほとんどの人に許容されている基準がすでに存在するということであり、これを元に思考することはできそう。データの話になるな。
最後の項目の「システム(社会)がそれを許容すると決めたのだから、加害者だけでなくシステムもまた一定の責任を負う」という発想もなかったな。システムもまた「判断」を行い、故に「責任」が発生する。そして「そのシステムを考えた人」や「そのシステムを支持した人」の判断によってそのシステムは生まれたのだから、そこにもまた責任が発生する、と。
まぁ面白そうなので、今度買って読みながら考えよう。最近は本を読める体調になってきたし。


・判断と責任が対である、という概念。
自分の判断で生まれてきたのではなく、親が「生む」と判断したのであり、「生まれてきたこと」には責任はない。
自分がどう生きていくかは当人の判断であり、「生きていくこと」には責任がある。
しかし、幼児などはそもそも判断能力がない。また、社会などの環境によって判断能力の増減や知識の偏りは発生する。つまり、「生きていくこと」の責任は生まれた瞬間から発生するわけではなく、さらに当人だけに責任があるものでもなく、生きている中で徐々に「当人の責任」が増えていき、そこまでに関わった人間やシステムもまた一定の責任を負う。というのが妥当だろう。つまり、「当人が悪いか環境が悪いか」という二元論ではなく、「当人も悪いし、そう育てた親や社会も悪い」という感じのもっとごちゃっとしたものになるのだろう。


・なんか結局あまり仕事してない。あと、後半にがっつりやってしまって、休憩を挟むのも失敗してる。ノってる状態を中断するのもそれはそれでアレだしなぁ。