相変わらず俺は学校が嫌いなようですな

サッカー=勉強の例えのメモに「全ての人間がサッカーを好きになることはないように,勉強が本来の勉強に戻っても全ての人間に受け入れられるわけじゃない」という趣旨を埋め込もうと思って改めてメモに目を通しての感想.


あの頃は憎しみで動いてて,多分今より死んだ目をして,今よりずっと頭の回転が早くて,今よりずっと視野が狭い.で,今は壮大な諦めで動いてて,多分昔より生きた目をして,昔より物事を考えず,昔よりはいくぶん視野が広い.器のでかさとかは小さいままだったりするけども.でも諦めることでポジティブに動くって良く考えたらすごいな.メモしとくか.


と思ったけど,あまりまとまりがないので雑記のみ以下に.あとでまとまる?思いついたときにまとめる.


・俺は物理信者であり,それ故に物理的限界としての諦めが存在する.特に,「原因がすでに決まっている故にすでに結果も決まっている」ということの意味は大きい.どっかのエントリにもそういう内容のがあったし.そのエントリにも書いてあったけど「結果はすでに決まっているけどそれは俺にはわからない」から別に運命が固定でも特に悲観はない.


例え
・俺の行動はこの世界にとって大した意味をもたない.それ故に多少「はっちゃけ」ても世界にとっては大した問題ではない.
・俺の声に誰も耳を傾けないならば,俺は大声で叫ぶことができる.
・夢も希望もないから自分のやりたいように行動できる.
・生きることに意味も価値もないから自分のやりたいように行動できる.
・旅の恥は掻き捨て.死んでしまえばこの世の恥はこの世に置いて逝ける.


そういやこの価値観は大学後半で発生した価値観だった.中学あたりから成熟されたものじゃないし,この価値観ゆえに物事を深く考えないから全然成熟してない.というか言語化してない.誰かに伝えるもんじゃないからなあ.だからこそのこの機会?