未分類の雑記

・睡眠時間9時間くらい。寝つきはわりと良く、平日っぽい時間に起きる。途中で2,3回起きたので、いつもほど寝た気がしない。しかし、逆にそのぶん起きやすかった。んん、そうだな。確かに、寝た気がしなければ起き上がりやすくはなるな。すげー損した気にはなるけど。頭の回転速度とかを考えると別に損はしてない。むしろ得してる気すらする。しかし、なんで損した気分になるんだろう。


バンブラの昨日のアレは、どうやら「オートストップ」という機能らしい(説明書を読んだ)。「〜ボタンを押してね」みたいな表示があればフリーズっぽい見た目にならずに済んだんだろうか。


・脳内議論の過程で、美しい詭弁ができあがったのでメモしておく。
「アノヒトのマネージメント能力は高いですか?それとも低いですか?」というN択攻撃。
「高い」と答えれば「アノヒト以上のマネージメントが期待できないなら出て行きます」。
「普通」と答えれば「アノヒトをフツーと呼ぶ感覚にはついていけないので出て行きます」。
「低い」と答えれば「そんな人に大規模開発を任せるような会社には居られないので出て行きます」。
いかなる答からも一意の結果を導き出せる。質問自体になんら意味のないあたりが素晴らしいなと思った。


・で、それはそれとして、上の詭弁に対しての防御法を考えてみる。とりあえず自分の呼称はmemecyとして考える。「アノヒトのマネージメントが本当に低い場合」はそれ相応の対応をすればいいだけだし、「memecyを特に引き止める必要がない場合」は別に出て行くといわれても困らないので、「両方をなんとかそのままの状態にする」ことを目的として設定してみる。
まず、一番最良なのは「memecyの現状認識を変えること」。もう少し言えば「今のマネージメントは悪くない、とmemecyに思わせること」。しかし、これは難しい。memecyがそう思ってるだけならまだしも、「このプロジェクトありえねー」という他の人の発言とか「作業を担当する本人へのその作業の連絡が一番最後(関係なさそうな人にまで情報は行っている。だいぶ前から決まっている。しかも忙しい時期になってからの連絡。etc.)」という事象を観察するに、「他の人もそう思っているはずだ」という思考がmemecyの内部には発生している。これを一人の発言でどうこうするのは難しいし、他の人の力を借りようにも、その人まで「いや、このプロジェクトはありえねー」とか言われると困る。んん、しかし他人の力を借りるのはありかな。「同じプロジェクトに参加している&同じくプログラマである」という条件が必要だと思うが、その条件に当てはまるのだけでも20人は居るはずだし。誰か一人ぐらいは賛同してくれるかもしれない。
マネジメントはおそらく色々な相性がある。個人との相性もそうだし、プロジェクト(大規模か小規模か。実験的か王道か)との相性もおそらくそうだ。そして、memecyはマネジメントに関する知識と経験が不足している。そこを突けばなんとかなるかな。最適解がどこらへんにあるかがちょっとわからないが、これはこれで手が打てそうだ。「memecyは大規模開発には向いてない」とかの、memecy自身が認識していることを指摘することさえ出来れば、発言への信用度も上がるだろう。しかし、memecy自身の認識をどう推測すればいいだろう。自分で言うようにうながせば伝わるが、それだとこちらがそれを言ったとしても信用度は上がらない。つまり、「こう思ってるならこういう発言で返すはずだ」みたいな間接的な質問をぶつければいいのか。どんな質問だろう。
てか、今日は休日じゃん。


・なので、もう少し不真面目に考える。詭弁とOSRをくっつけられないか。N択攻撃であれば、「どう答えようとも自分のOSRが上がる質問」みたいな。発話行為だけでなく、各種行動パターンにまで拡張して考えることもできる。ポイズンナントカ(0択攻撃)だったら、詭弁そのままでも、相手がどんな行動を取ろうともOSRを減少させることができそうだ。


・ついでだし他のもメモるか。
この会社の企画は「変なのを作る」のは慣れてるけど「面白いものを作る」のは慣れてない感じ。「ネタは面白い」けど、「やってて面白い」まで持っていけない感じ。ネットで見かけるこの会社への反応を見る限り、そんなにはずれてないとは思う。
あと、今のプロジェクトに関しては、あれからだいぶ(もう一年か)経つので、前作のマイナスの影響は少なくなりそう。しかし、アレによる顧客の増加はやっぱり見込めないと思う(もう一年経つので)。


・てくるで、この前のソウルイーターの最後で、時間がないはずなのに着替えるのはOSRだと思った。


・オリンピックの開会式は見れなかったな。いや、最後に「まとめ」とかやるはずだから、そこで見る可能性はある。
しかしまぁ、本当にリアルタイムでテレビを見ることが少なくなってきている。もう少し適当にテレビを見てるもんだと思ったんだが。別に良いといえば良いのだけど、自覚がなかったあたりがちょっとショックだ。残業が続いてるせいもあるんだろうけど。


リズム天国は、全部ハイレベルにすれば常時チャンスモード?それともRemix10クリアの時点でそうなってた?


・そいや、AS3にもだいぶ慣れたから、「ゲーム性」の検証もある程度はこなせるようになってるんじゃなかろうか。残念ながら、検証に耐えうるほどの考察がそもそもできてないわけだけども。
じゃあ、少し考えよう。
「これはボタンを連打するゲーム」「これはボタンを目押しするゲーム」「これは表示に即座に対応するゲーム」というのは、見れば分かるので、たぶん浅い考察に入るんだろう。知らんけど。しかし、「タイミングを取るだけのゲーム」とか「反応してボタンを押すゲーム」というだけでも楽しめそう、、、でもないか。脳内で「何の音楽もなしに、ポップンみたいなやつを押していくゲーム」とか「ボタン名が表示されたらすぐにそれを押すだけのゲーム」をやってみたが、3秒で飽きた。違うな。
で、現状では「面白さ」というのは、「コンテキスト」を提供することで特定の「解釈」を誘発し、その「解釈」によって「面白さ」が発生するのではないかとかそんな感じのことを思ってる。うん。抽象的だ。現状がこのレベルなので、これを実際に検証可能なレベルまで具体化しないといけない。ちょうどリズム天国とかの「タイミング系」のゲームはあるわけだし、これを考察して「面白さ」を取り出すことができたら、その考察は正しいと言えよう。この段階で、なんかすでに難しそうだ。まぁ、やってみよう。


・書いてて気付いたけど、「面白い」というのは「解釈」の一種なわけで、「解釈」である以上は当然「コンテキスト」の影響を受けるのか。なんで書くまで気付かなかったんだ。なんか「それ単体で存在しうるもの」みたいに思ってたぞ。


・たぶん、いわゆる「TVゲーム」だけじゃなくて、他の「ゲーム」もそうなんだろうな、と思う。例えば、野球とかは以前は「あんなの球を投げてそれを打つだけじゃん」だったが、NANDA!?とかGet Sportsを見るうちに、「空振りを狙うのか」「つまらせて仕留めるのか」「次でストライクを取るために布石を打つのか」などの目的があることがわかったし。これはTVゲームでいうところの「あんなのボタンをピコピコ押してるだけじゃん」あたりの構造と同じなんだろうな、と推測している。


・そういえば、「昔のゲーム」って、やっている時に本当に「想像力」とか使ってたっけ。他の人は使ってたっぽいので、きっと自分もそうなんだと思っていたけど、本当にそうだったっけ。
違うような気がするんだよなぁ。車とかを見ても「ウィンカーを目として解釈する」ような人間ではなかったしなぁ。そこにあるものを、わりとそのまま認識している人間だったと思うんだ。「想像力」による別の「解釈」はしてなかった気がするんだ。あのドット絵をドット絵のまま受け入れてた気がするんだ。
しかし、思い出せない。


・今日の雑記が多いのは、バンブラリズム天国に疲れてきたせい。さすがにずっと続けるのは何事も疲れる。SW2.0のルルブ2とかリプレイ2とか読んでないし、ちょっとそっち側行くか。


・電車の中ではもっぱらバンブラだけなので、アドエスを持ち歩いていないのだった。またケータイを携帯していないよ。


・あ!なんだ。簡単じゃないか。「昔のゲームは想像力で補っていたから面白かった」なら、「今のゲームを昔風のグラフィックに脳内で置き換えて、それで面白くなったかどうかを判断」すればいいだけじゃないか。「今のグラフィックにひっぱられない脳みそ」とかが必要になるけど、俺ならそれはできる!
と思ったが、そいや自分は「昔のゲームは想像力で補っていたから面白かった」派ではなかった。さっき書いたばっかりじゃん。じゃあ、他人にやってもらえばいいのか。どっかから懐古厨をひっぱって、ってムリか。懐古厨だと懐古のために判断をねじまげかねない。そもそも他人の発言をきちんと解釈する脳みそが自分にはない。
となると、自分が懐古厨になりきって、と思ったけどそれはそれでサンプル数としてたった1つに過ぎないし、しかも即席懐古厨だから説得力に欠ける。
じゃあエミュで、という感じだが、「懐古厨」は「懐古厨」というカテゴリなので、「懐古厨」以外の結論が出て来ない。「懐古厨」以外で「昔のゲームは想像力で補っていたから面白かった」派をエミュりたいのだが、残念ながらサンプルにない。サンプルにないということは居ないということで、良くないな。ただそれは観察されてないにすぎない。
なんだよ。せっかく思いついたのに検証できないじゃないか。


・未練たらしく、なんとか検証できないかと考えていたら、別の疑問が湧いてきた。面倒だなぁ。メモはするけど。
「昔のゲームは想像力で云々」という人にとって「今のグラフィックにひっぱられないように云々」というのは容易いだろうか?「昔のあのドット絵から何かを想像できる」のだから、「今のグラフィックから何かを想像する」のも容易いのではないか。「今のグラフィックはリアルに近すぎるからできない」というならば、わりと想像力は弱いんではないか。なんだか「あのドット絵から何かを想像できるなんて!」という感じで想像力が高い人みたいに思ってたが、そう考えると「あの抽象的な絵からしか想像が出来ない人」みたいな感じでむしろ想像力が貧困なんじゃないかと思えてきた。ここらへんどうなんだろう。
俺はまぁどっちも額面どおりにしか受け取れないので、想像力は限りなく貧困なんだろうけども。妄想力はまた別だが。


・想像力と妄想力の違いをまた忘れかけている。
想像力とは「与えられた情報からそれを脳内で再現する力」とかそんな感じだった気がする。昔定義した気がしなくもないが忘れた。いつものことだ。うん。
例えば「林檎」と言われたときに「あの外見、あの匂い、あの味、あの歌声」などを思い出すのが想像力だ。
そうなると、「想像力」とは「欠けている情報を補完する能力」とも言えるか。ならば「リアルだから=情報がすでに充足されてるから、補完はムリ」というのは妥当か。それはむしろ「想像力」ではなく「変換能力」だとか「妄想力」だとかの類か。


・新しいとっかかりが出来たから、ここから再び考えよう。そろそろ疲れてきたけど。
「想像力」=「欠けている情報を補う能力」と捉えれば、「想像力を使うから楽しい」というのは「欠けている情報を補うから楽しい」ということになる。ここで考えられる楽しさというのは「欠けているものを満たすことに対する満足=一種のコンプリート欲」とか「自分の都合の良いように想像することで、通常よりも良いように捉える喜び」とか。フツーは後者と捉えるのが自然か?
「自分に都合の良いように想像する」というのは具体的にどういう内容だろう。こっから先は具体的に何かゲームを想定しないとムリか。ていうか、そろそろ別のことを考えたいよ俺。そろそろ解放してくれよ俺。ということで終了。


・赤ん坊における「どうせ歩けないのだから、よちよち歩きなんてしない」というような。あるいは「どうせ転ぶのだから、自転車の練習なんてしない」というような。おそらく、そんなことなんだろう、自分のこの感情は。だから「たとえ失敗するのだとしても、俺はそれをやりたい」と思うのだろう。