関心相関性とやらのメモ

まぁ、あのアンカテのエントリ見たのでちょっくらメモ。
というか、ちょっと実験したい。この前の森氏のエントリみたく展開して考えられるかどうか。つまり、読書しながらのメモというか、一番最初の誤解の考察を今一度やってみるというか、まぁめんどくさ(説明諦めた)。


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まず、タイトルは" 汎用のブログ間対話プロトコルとしての「関心相関性」"。つまり、ブログ間のコミュニケーションのやり方として「関心相関性」を使うってのはどーよ、という話だと推測。最初に思い浮かぶのは「関心相関性」って何よ、という疑問。


しばらく、「客観性」について云々の話がある。その後、"この難事の為に、西條氏は「客観性」を「関心相関性」のサブシステムとするという手法を編みだした。"という文が存在する。つまり、「関心相関性」とは「客観性」を内包する考え方なのだと考えられる。では、どのように内包しているのか。


まず、"関心相関性とは、「存在・意味・価値は主体の身体・欲望・関心と相関的に規定される」という原理である"と説明される。ここから例を考えてみる。ちょっと持論を持ち出して、「どんなに高性能だろうと、誰にも必要とされなければただのゴミであり、どんなに低性能だろうと、誰かに必要とされるならばそれはゴミではない」という文で考えてみる(本当は、自分のことを道具と思っていることの説明に使うための文だが)。この文における「必要とする」とは「自分の欲望を満たす」とか「自分が関心を持つ」という「観測者側の条件」の存在によって、「観測対象」が「意味」「価値」を持つことを表現している(たぶん、「高性能」という「価値」も本来は云々だろうけど)。そう考えると、ちょー簡単に言えば「全てのことはしょせん主観じゃん?」ということだと思われる、が、その後の文を考えるとちょっと違う。


次に来るのはエントリへの感想の話である。この読み方(感想)として、「個人的な話ですね」「教育システムの問題という客観的な話だ」「"お母さん"で表現される問題の話だ」という3つが挙げられ、それらはそれぞれ個別の感想であると言及している。そして、"その中心にある「一つ」の価値は何かと言えば、それが「関心相関性」ではないかと思う"、"その関心にあり方の総体に、一つの連続性を見つける為の手法が、「関心相関性」であると言えるかもしれない"という文章によって、「関心相関性」とはただの主観ではなく、主観も客観もひっくるめたものであると考えられる。つまり、「全ての観点を内包する」ことによって前述の「客観性」とかを扱うのだと考えられる。


で、じゃあその「関心相関性」をどう使うかという話にうつる。ここでは、「ある観点で書かれたもの」が「別の観点によって批判・評価される」という例が挙げられる。そのようなすれ違いを避けるため、「それはどのような観点で書かれたものか」「自分はそれをどのような観点で見ているか」とか、「自分はどのような観点でこれを書いているか」という風に、一つ上の段階(=「関心相関性」?)から見て考えれば良いんじゃね?という話と推測する。


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「頭の動きはチョイワル程度+ノリの良い音楽」によって、多少読解力は落ちている。あとで参考リンク先とか辿ってみる。
たぶん、スルーカの改善とかに使えるんじゃね?とか思ってる。本当は「書く」段階においても使うべきなんだろうけど、それはここを雑記と決めた時点で諦めている。


なんつうかあれですよ。少しばかり「読解」ってやつがわかってきたのですよ。説明を書くときと同じで、「文の構造」みたいなメタというか一つ上の階層を意識するのですよ。単語列→その文の意味→その意味は、文章全体ではどのような位置づけにあるか、文章の意味を構成するためにどう必要か、みたいな。もう少し慣れないとアレだけど。まだムズいね。


はてブだとこの文章と分離するので、一応こっちからリンク張っとく。
ここにも「あとで確認」タグつくるか?