「目的と手段の識別」について考えてたら「目的を手段として見る方法」を考えてた

ちょっと長めなので他の雑記とは分離。


目的と手段の識別の方法について考えていて、「それは他のもので代用できるか」である程度は識別できるかな、とか思った。ただ、この方法での識別は(例外も多いし)あんまり意味がないというか、「実はこれは目的じゃなくて手段なんじゃね?」とかこねくりまわすのに使うほうが良さげな感じ。


まず、基本は「代用できれば手段」「代用できなければ目的」となる。例えば、誰かを叱る場合、「体罰」「説教」「無視」とか色々な行動が存在するが、これらは(望ましさとかの基準は置いておくと)代用可能であり、それゆえに手段である。それに対して、「相手の行動を非難し、抑制する」というのは代用ができず、それゆえに目的である。


実際にやってみるとわかるが、「代用できない」というのはなかなか稀である。上のやつは「目的である」と断定口調だけれども、実際にはそんなに断定できるものではない。もしかしたら「自分の怒りを静める(そのために怒る)」で代用できてしまうかもしれない。なので、「目的と手段を区別する」というよりは「あらゆる目的を手段として捉えてみる」ための手法だと考えたほうが良さげ。


この考えは、「プランニング」の知識に基づくもの。「最終的なゴール(目的)」が「一つだけ」設定されており、それを達成するために「分割された小さなゴール(サブ目的)」が木構造として現れ、葉の部分が「実際の行動(手段)」となる、という仮定。
この仮定のため、「分割された小さなゴール(サブ目的)」は代替可能かもしれず、「手段」と判定されるかもしれないし、代替不可能なため「目的」と判断されるかもしれない。そこらへんは前述の単純な判定では判別が困難。
あと、なんか「一つだけ」の部分が現実に適用する場合に問題になる気がするんだけど、よくわからん。


もう一度、例を使って考えてみる。例えば、「腹が減ったから何か食う」という場合、単純に考えれば「目的:何かを食べる」「手段:ラーメンを食べる」となるが、「目的」は代替可能かもしれない。「目的:空腹感をなくす」ならば満腹中枢だかなんだかを電気的に刺激すれば済むかもしれない。「目的:空腹によって生じる不快感の解消」ならば別のことに集中すれば良いかもしれない。「目的:空腹のために落ちている運動能力の改善」ならば、うーん、なんだろう。まぁいいや。とにかく、「代替可能性」によって、色んな「うがった見方」ができるんではないか、という考え・手法のログ。