今日の雑記

・睡眠時間ひとまず6時間くらい。寝つきは良かったんだけど珍しい夢を見て二度寝できず。目覚めも良い方だったのでいったん起床。


・にしても本当に珍しい夢だった。一通り珍しかった。夢の中でSplatoonっぽく塗って移動しようとしてたところも、女の子と普通に喋ってたのも、ゲーム番組のMCをやってたのも全て珍しかった。どれも一応元になるものに心当たりはあるが、それが夢に出てくるとは思わなかった。


・朝のうちにまた個人の作業。芸術のマーケティングの本の読書の続き。


・芸術とゲームは似ていると思ったが根本的な部分で違うのかもしれない。
一般的な企業における大目標は「利益の追求」だが、芸術関連の組織における大目標は「芸術の追求」だ。
別の言い方をすれば、金銭を長期的に獲得するのが一般的な企業だが、質の高い芸術を適切な顧客に提供し続けるのが芸術関連の組織だ。
そしてゲームはどちらにもなり得る。お金を稼ぐ手段と割り切る事もできるし、質の高い娯楽を提供する方に舵を切っても良い。


・しかし芸術と興業も改めて比べると違いがよくわからない。バイオリンを弾くのは芸術で、エレキギターを弾くのは芸術ではないのか?そこに何の違いがあるのか。


・個人でゲームを作るとして、それ自体は大目標ではない。自分向けの大目標として「個人で食っていく」というのがあるが、外向きの大目標が別で存在するべきなのかもしれない。つまり「他人や社会に対してXXする」という大目標の手段の一つとして「個人でゲームを作る」というのが存在する形。
一応、自分としては「個人で食っていく社会を一般化する」という目標がないわけでもないが、それほど強いわけでもないんだよな。ただ、他人が真似できる形式でありたいとぼんやりとは思っている。なんにせよ、これは組織理念というにはなんか違う気がする。
組織理念のようなものを真似るとしたら「他のゲームでは体験できない経験を提供する」という感じだろうか。でもそれは本来大抵のゲームで成立するもののような気がする。というか同じ体験しか提供できないなら新しくゲームを作る意味はない。かといって「大手の会社では提供できない〜」とすると相対的すぎる。
組織理念はある意味では「文化の創成」と言える。「自分達の商品(というかジャンル)が浸透している社会」を目指すもの。「こういう文化が浸透しているから自分達の商品が受け入れられる」という状況を作り出す事を目的とする。さらにその上で、そのジャンルにおいて何故自分達の方の商品が受け入れられるのか、ひいては自分達の商品は他の商品より何を優先しているのか、それがまとめられたものだ。
例えば架空のゲーム会社の理念として「いつでも どこでも 誰とでも遊べる」というのを考える。これを一番実現しているのはポケモンだろうか。主に携帯ゲーム機に特化したゲームであるため「どこでも」遊べて、セーブ場所を問わないので「いつでも」遊べる。さらに通信で「誰とでも」遊べるうえ、多言語対応しているので「外国の人とでも」遊べる。あくまで架空の理念なので実際のポケモンの方向性とは食い違うが、なんにせよこういう理念を立てたならば「据置機よりも携帯機」「1人ではなく複数人で遊べるもの」という風にゲームの方向性やらその後の展開まで決定される。


・芸術事業(というか公共事業)は「実際の顧客」だけでなく「社会」もターゲットにする。実際の顧客以外にも「何故それをする事に価値があるのか」が説明できないといけない。この点はゲームと大きく異なる。というよりは公共とそれ以外の違いというべきか。
仮に「公共としてのゲーム」というものが存在しえた場合、それはどういうものだろうか?脳トレのような感じの「なんらかの現実の問題(痴呆など)を解決するゲーム」だろうか。確かにちゃんと効果が実証でき、そのために特化したゲームであれば公共のものとして許容される可能性はある。


・芸術と興業の違いについては改めて言及されていた。
厳密な対比は「社会」と「商業」になるだろうか。まだズレてる気がするがここでは置いておく。
例えば「社会」においては法律・治安・交通・教育・医療など「実際に利用する個人だけでなく、社会全般において存在が期待されるもの」がある。それ故に税金などの形で全ての人間から対価が徴収され、国によってそれらが実現される。そしてこの中に含まれるものが「芸術」になる。
別の見方をすると「警察に対する警備会社」「医療に対するサプリメント」のような形で「国が提供するサービス以外の似たようなサービス」というものがあり、これらは商業として行われる。この対比で考えると「国が提供するものは基本的な最低限の価値」「商業で提供されるのは個人が選択可能な付加的な価値」と言える。
さらに別の視点では「実際に利用する人間ではコストを払いきれないもの」というのがある。例えば道路を作る場合、実際に恩恵を受ける特定個人だけからの資金だけでは足りない。さらに言えば実際に恩恵を受ける人間はこの先にもまだまだ存在する(これから生まれてくる人間が利用する)。それ故に税金の形で広く薄く集めていると言えるし、将来の人間にとっても価値があるという意味では(嫌いな言葉ではあるが)普遍性のあるものが国によって作られる。
つまり芸術が公共のものとして提供される場合、そこには一定の基本性?と普遍性が期待される。エレキギターよりバイオリンが優先されているように見えるのは、そちらの方が基本性?と普遍性が期待されるからである。おそらく厳密には楽器の種別ではなく楽曲の方に依存しており、「100年後にも一定の評価が得られそうであるか」という観点から選ばれている。(その意味では特定の商業作品がそうあってもおかしくないし、実際にそういう流れもあるようだが)


・そしてどうもこの本ではこの「公共」の存在としてマーケティングの話が進むようだ。「商業」とは別の観点からのマーケティングという意味ではとても価値のあるものに見えるが、個人のゲーム制作の観点から役に立つかはちょっと怪しくなってきた。


・そういえば本の名前をまだ書いてなかった気がする。「アーツ・マーケティング入門 芸術市場に戦略をデザインする」だ。いま第3章の途中。


・理念の話に戻ろう。
また適当に理念を考えていくと「個人制作ゲームに対する期待値を上げる」というのも考えられる。これは作品の方向も決まる。ハードルも上がるが、それを越えられたなら相応の意味を持つだろう。
他には「幅広い年齢層に遊んでもらう」というのも考えられる。これはどちらかというと「ゲーム人口の拡大」という任天堂の理念に近いか。ていうか任天堂の理念ってそれか。あんま意識してなかったな。
そもそも理念は「なんか良さそう」で選ぶものではなくて「自分はこれが絶対に良い・正しいと思う」で作るものな気がする。そんなもの自分にあったっけな。ムダな正義感ならムダに溢れているけど。


・あぁ。「楽しい方が良いに決まってる」あたりか。自分の信念の一つ。
しかしこれは少なくとも中学あたりまではそう思ってなかったはずなんだよな。「個人の楽しさより規則を優先すべきである」というのが幼少の頃の自分の信念だった。主に自分が受けた教育とシートン動物記の影響が大きい。でもその規則のせいで色々と失ってから今の状態に変質したんだよな。その変化を他人にも起こす事を理念とするならアリかもしれない。
しかしそれって個人の主張の押し付けと何が違うんだろうな。いや、違わないのかもしれないな。理念とはそういうものか。「ゲーム人口の拡大」だって他の娯楽から見れば自分達から顧客を奪う理念だもんな。誰かにとっては不利益になるのか。
理念は思っている限りは問題ではないが、行動に移した時点で問題になりうる。いや、違うな。「押し付ける」のが問題なんだ。自分が行動するぶんには問題ないのか。もちろん行動によって対立などは生じうるが、その対立は「交渉」などの手段で解決可能だ。必ずしも「押し付ける」必要はない。
そもそも本能レベルでない行動はたいてい理念のもとに実行される。というか理念なしには行動できないだろうし、行動を伴わない理念に価値はないし、そもそも捨てられる程度の理念なら理念とは呼ばないだろう。自分が生きている限り、行動をする限りついてまわるのが理念なんだろう。それ自体はどうしようもない。
であれば「理念のもとに行動する」のまでは許容できる。というかそれは単に一般的な現象であってとやかく言うものではない。「理念を押し付ける」のが否定されるべきであり、理念の評価・許容自体はそれぞれが判断すべき事だ。特に商売においては「買う・買わない」という形で比較的簡単に評価・許容が可能だし、押し付けるというのは買わせるという事なのでまぁ現実的にムリだろう。


・でもそう考えていくと「文化を作る」というタイプの理念は難しいかな。他人を変えるという意味では押し付けではなかろうか。
違うか。「賛同してくれる人が多ければ変わる(文化が作られる)」という話か。「自分はこう思うのでこういう商品を作る」「その商品(ひいてはその価値観)を購入(評価)する」という応答があって作り上げられるだけか。
でもなんというか「自分はこれが良いと思う」に留めたい感じはする。「世界はこうあるべきだ」は以前に書いた大きな主語の問題(押し付けの問題)そのものな気がする。でもなぁ。文化ってつまり世界の一部分だからなぁ。少なくとも自分とその回りで収まる問題ではない。


・まぁ外部から見たらこんな事を真面目に考える必要もないのだろうが、自分としては「納得のいかないものを実行する」というのは難しいからな。ちゃんと納得のいく形てケリを付けてからでないと動けない。


・そもそも「提案」と「押し付け」は何が違うんだろう。どちらも「他者への価値観の提示」という部分では一致しているはずだ。
「譲る姿勢」の問題?押し付けは譲る気がなく、提案は譲る気がある。であれば理念はやはり押し付けか?
「やりとりする気がある」かどうかかな。押し付けは相手の事など考えず自分が押し付けたいから押し付けるだけだ。提案は相手とのやりとりを想定する。理念そのものはやりとりの有無とは関係ない。というかそうだな。理念は一つ上のレイヤーというか押し付けや提案の目的語なんだな。つまり「理念を提案する」んだ。
そうだな。「相手の事を考えるかどうか」かな。いや、それだと「考えた気になってる」というのが混じる。それはむしろ悪だろう。やはり「相手とやりとりする気がある」あたりが妥当か。で、じゃあ「相手とやりとりする気がある」ってのと商品はどういう関係なんだ?


・理念と提案と商品。単に単語を並べただけだとよくある自明な雰囲気がするけど、いざ組み立てようとするとよくわからんな。
「提案としての商品」な感じはある。「商品は理念の代弁者」に見える。「商品を通じて理念を提案する」というのがミニマムな文章になるだろうか。
だが「商品での提案」ってなんだ。あるいは別の考え方として「商品での押し付け」ってなんだ。
「商品の押し付け」ならわかる。NHKの受信料義務化あたりはこれだろう。「商品"で"の押し付け」もこれに乗っかる形で「NHKの理念を受信料義務化という形で押し付けている」と言える。だから反発しているのだと考えられる。
であれば「商品での提案」ってのは「買うか買わないかで受け入れるか受け入れないか答えてください」という感じなのかな。つまり普通に商品として売っている限りは提案であると言える。ただし、広告とかで「これどう?」「これどう?」「これどう?」と訊いてくるのは提案ではない気がする。一回は伝わらないと提案とは言えないが、何度も伝えるのは提案とは言い難い。これもまた押し付けか?


・まとめると「普通に商品として売れば理念の提案と呼べる」「顧客に商品の情報を伝えないと提案したとは言えないが、顧客の気持ちを無視して情報を伝えようとするのは提案ではなく押し付けである」って感じか。
そうだな。広告は顧客との対話なんだ。あるいは情報を伝える事が対話なのだ。その意味では口を使うのも広告も変わりない。相手の意志を考えずに情報を伝えるのが押し付けであることも変わりない。


・なんかすっきりした。「自分がなぜ広告を嫌いなのか」というのもわかったし、「広告はどうあるべきなのか」というのも結論がまとまった。理念についてだけ考えてるつもりだったんだけどな。


・第3章を読み終わり。二度寝を試みるか。二度寝というか昼寝というか午前寝というか。


・寝る前に改めてまとめ。
商品は理念の代弁者(具現)である。
広告(情報伝達)は対話である。
提案なのか押し付けなのかは対話=広告のやり方次第である。


・ちょっと難しかったが2時間ほど昼寝。まだダルさがあって二度寝できそうだったが一応起きた。もうすぐ13時だし。


・読書再開。第4章。市場について。


・芸術の市場とゲームの市場の対比は意外とマッチするかもしれない。
例えば芸術だと「特定の場所(設備や地域)では客が集まらないが、他の場所では客が集まる」という時、「その場所にはまだ芸術が根付いていない(芸術市場がない)」と判断される事がある。「日本にはまだ芸術市場がない」とか「この地域にはまだ芸術が根付いていない」とかそういうものだ。
同様にゲームだと「スマホにおいて有料ゲームが売れてない」という時に「スマホにはまだ有料ゲームの市場がない」という結論が出される事がある。


・ちょっと対話の話に戻る。
対話はゲーム内でも行われる。というかゲームクリエイターなら大抵の場合普通にやってるだろう。チュートリアルはテクニックなどを教えるための対話だし、その後の遊びも作り手と遊び手の対話だ。
それと同じことをゲームの外、チュートリアルのはるか手前まで伸ばすだけの事だ。そしてチュートリアルが「単純にアクションを一つずつ確認するだけの単調なもの」から「プレイヤーの習熟度によって可変だったりスキップ可能なもの」のようなものまであるのと同様、広告部分での情報伝達方法にも良し悪しがある。
基本的には「プレイヤーの意思」を尊重すべきだろう。作り手の都合でだらだらと情報を垂れ流すだけではいけない。プレイヤーが選びたい事を尊重すべきだし、そのために情報は整理されるべきだ。
そして「プレイヤーを楽しませる事」がどのレイヤーにおいても重要だろう。自分は嫌いだがティザーサイトなどはそういう意図においてなされる。ティザーからの大喜利は「プレイヤーを楽しませる」という点においては成功している。(大抵の場合(というかスクエニの場合)、本公開の段階で「プレイヤーを落胆させる」事が多いのでティザーは嫌いなのだが)


・市場の大きさか。
可能性だけで言えばスマホゲームの市場の大きさは「スマホの所有者」の多さである。実際に全員が顧客になるとは思えないが、なんにせよそれが上限となる。
スマホというとなんかほとんどの人が持っているイメージがあるが、実際にはガラケーとかもあるからな。
で、スマホの所有者数を調べるべくググったら下のような記事があった。
http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1504/13/news147.html
このデータ上ではスマホの割合は今年前半の時点で60%程度。実際には「インターネットを使っている人」や「携帯電話を所有している人」に限定されるが、そう考えてもだいたい50%くらいだろうか。なんにせよこれが上限だ。個人開発レベルではあまり考慮する意味なないような気がしてきたが。


・ニーズについて。
例えばスマホゲームにおいて「音楽を聴く必要がある」というのは結構なネックなのではなかろうか。デレステが伸びてる状況で言っても説得力がないかもしれないが、スマホのゲームは電車内でも結構遊ばれるし、そのためにイヤホンなりヘッドホンなりが必要とされるのは敷居が高いように思える。
同時に「音楽を聴く必要がある」というのは他との差別要因にもなる。そういう制限があるからこその体験を提供できるし、それを欲する=ニーズがあるという事もあるだろう。


・市場の特徴。顧客の特性。
これはペルソナで考えるあれかな。それがちゃんと現実の市場と一致している事とかそういうの。


・セグメントかー。同じ「ゲームを買う層」でも10代と30代では出せるお金も使える時間もあらゆる要素が違う。誰をターゲットとするか、あるいはターゲットを広くするならどうあるべきか。
大きな会社ではどうしてもターゲットをある程度広く取らないとダメだろう。であれば逆に個人なら特定のターゲットに絞る事が可能になる。ここは大きな違いに見える。
そしていったん個人が特定のターゲットに絞ったなら、多少拡張する事はあっても他のターゲットに移っちゃダメだろうな。顧客を失う事になるし、そうなると持続の点から難しい。
さきのペルソナはそのままターゲットだよな。そして個人なら狭くて良い1〜2人のペルソナを深めていくだけで十分な感じはする。


・ターゲット(ペルソナ)は「かつてゲーマーだった人」あたりかなぁ。FC〜SFC〜PS世代あたりの人で、社会人になって金はそこそこあるけど時間は昔ほどない人。年齢は広く見ても20代後半〜40代くらいだろうか。あまり広くしすぎても想像できないから、いっそ自分くらいの年齢で固定しても良いのかもな。
スマホは当然持っていると思うが、AndroidiOSかは不明。どちらかを優先するような特性はないと思う。
デジタルネイティブとまでは言えないまでも、大学生の頃にはインターネットがそれなりに普及していたのでそれなりには慣れている。
Amazonは使った事があるだろうし、iTunesみたいなデジタルでの曲の購入もかなりの確率で経験がある。ただしスマホでゲームを買った経験があるかは怪しい。無料ゲームならいくつか遊んだ可能性はあるが、初期のスマホ(あるいはその頃はガラケー)だったためにそれほど良い体験ができていない可能性もある。
コンシューマのゲームを遊んでいるかは不明。据え置き機を持っている人も居るだろうし、もはやゲームに触れてない人も居るだろう。ただし、ゲームにまったく触れていない場合は潜在顧客となりうるか怪しい。
SNSをどの程度使っているかも不明。Twitterをやっている可能性はそれなりには高いだろうか。しかしまったくやってなくてもおかしくはない。


・脱線して。
会社であればまったく違う種類のペルソナを考えるのは有用な気がする。どんなに魅力的なゲームを作っても短期間にそう何度も出費が可能とは限らない。であれば期間を確保するためにいくつかのペルソナ用のゲームを一定のサイクルで作っていく事は有用に見える。
まぁ最近のゲームは開発に普通に1年くらいかかるからあまり意味はないかもしれないが、思いついたので書いておきたかった。


・「すでに有料のゲームを買っている人」の情報は確かに欲しいな。
自分の観察範囲だと必然的に「そういうのを探して紹介する人」とか「研究のために買うゲーム業界の人」みたいな純粋なユーザとは言えない感じの情報しか得られない。まぁこれはこれで一種のアーリーアダプターの傾向みたいに見る事は可能だけども、もっとなんというかちゃんとした統計的な情報は欲しい。
しかしそれはどう集めれば良いんだろうな。
あれか。実際に特定の有料のゲームのタイトルをググるなりTwitterで検索するなりしてその人達の特性を検証すれば良いのか?それはアリかもな。それもまだ「自分から情報を発するタイプ」という偏りを持つが、自分がフォローしてる(興味を持ってる)という偏りよりはだいぶマシだ。


・第4章読み終わり。今回も色々と考える事が多かったな。
今ならペルソナをもっと明確に考える事ができそう。おそらく「ゲームプログラマーにならなかった自分」が一番想像しやすいペルソナだろうと思う。まずはそれを組み立てていくかな。


・しかし「もう一人の自分が自分のゲームを買うかどうか」って結構怪しいんだよな。
例えば実際の自分は「3DS版のShift(タイトル忘れた)」を購入していない。それに類する「変わったゲーム」も購入していない。そしてそういったゲームを自分は作っているのだ。そこに齟齬がある。
ここで考えるべきは2つ。ペルソナを「実際に購入する人」に変えるか、商品を「自分が実際に購入したもの」に近づけるか。前者だとペルソナの構築が難しくなり、後者だと商品の作成が難しくなる。どちらかというと後者の方が実際に作った時の自信も出るので良い気はするが。


・というわけで後者(ゲームを実際に購入するものに近づける)について考える。
まず単に「変わったゲーム」というだけでは購入にはつながらない。それ自体はニーズではない。
ただし自分の興味をひくには十分だ。つまり一種の広告としての価値はある。購入しないまでもゲームのCMとかプレイ動画をチェックするくらいはしている。
問題はそこから購入につながらなかったという点だ。3DSは持っていた。それなりに安価だった。それでも購入しなかった。時期が悪かった?じゃあ他にするゲームがなくなったら購入した?そもそも自分の購入理由はなんだ?


・いったん「自分が実際に買ったゲーム」について考えよう。
最近だとSplatoon。おそらく次に買うのはMHX。これだけだと「友達と遊ぶ」のが重要に見えるし、実際にそれは結構な比重を占めるが、少し前に戻るとリズム天国ガールズモードを買ってるのでそれが全てではない。そして個人開発の場合はそういう通信系の対応はコストが高いので一人で遊ぶゲームで満たされるニーズの方が重要だろう。
一人用のゲームに絞ると最近は「リズム天国」「ガールズモード」「世界樹と不思議のダンジョン」あたりだろうか。もっと前になると「どうぶつの森」「ソリティ馬」なども入るか。これらは他の人との通信要素もあるが、自分としては一人用の娯楽としての要素が強い。例えばポケモンは一人でも遊べるが、こちらは自分としては対戦用のゲームとしての比重が極めて高い。
ソリティ馬以外は基本的に続編に近いものだと言えるし、実際に続編だからこそ楽しみを予想できた部分は強いが、それは実際に前作を遊んだ事があるからであり、「続編だから」という要素も全てではない。
改めて個別に考えていこう。
リズム天国」については「自分は音ゲーがしたいのではなくリズムゲーがしたいのだ」という自分のニーズを的確に捉えた商品だといえる。ただし、CMとかプレイ動画を見ても自分が興味を示したとは思えない。絵がアレだしやっている事は単純だしで、「リズムを刻むことの純粋な楽しさ」にアレで気付けという方がムリがある。これに関しては「友達がやっているのをたまたまやらせてもらった」というのが大きい。作り手が用意した導線で反応できたわけではない。
その意味では「どうぶつの森」も同じだ。CMなどを見ても面白そうとは思えなかっただろう。かろうじてTwitterでネタ的な部屋が投稿されたら興味を示すかも?といったところだ。これも実際に興味が出たのは弟のプレイを後ろで見ていて「自分だったらこうするのに」と思ったからだ。「不思議のダンジョン」もほぼおなじ構図と言える。
であれば、純粋に自分単体で興味を持ったのは「ガールズモード」と「ソリティ馬」くらいだ。
ガールズモード」が満たすのは「コーデ欲」だ。これは色んなゲームで半端には満たされる。モンハンとかもそんな感じだ。しかし「半端」なのだ。どれもこれも「ついでにコーデが楽しめる」だけであって「コーデそのものが楽しめる」わけではない。コーデを中心としてその他の要素が整理されているわけじゃない。そんな中でガールズモードはほぼコーデを中心としたゲームだ。一応、経営(リソースマネジメント)の側面もあるにはあるが、とにかく「コーデがしたい」というニーズに的確に応えている。さらには「男用のコーデも揃える」という風にして自分のような「でも女性のコーデだけで楽しめるだろうか」という不安を良い感じに緩和する事もできていた。重要なのは他のゲームで半端に満たされたせいで自覚できた「コーデ欲」というのが存在し、「男用のコーデ」によって不安をある程度は払拭したという部分だろう。この「半端故に自覚したニーズ」は音ゲーに対するリズム天国と共通しており、重要な要素っぽい。そしてリズム天国は「単純すぎてつまらないのではないか」という不安を公式の情報では払拭できなかったのが問題と言える。
ソリティ馬」に関してはよくわからん。覚えてないと言った方が適切か。弟に進められたのは覚えているが。ってあぁ思い出した。これは違うや。「仕事で必要だったから」だ。


・項を改めて。
ゲームをやっていて半端に満たされるニーズというものがある。これがあると「それに特化したゲームが遊びたい」という欲求が発生する。
このニーズに応える利点は「擬似的にすでに体験している」というものだ。体験版を提供するよりも前に「こういう事ができるならこういう風に楽しいだろう」と思える。だからゲームの情報を的確に提供さえできれば購入に至る確率はかなり高くなる。
改めて考えると自分がゲームを購入するのはかなりこれに依存している。リズム天国ならば音ゲーにおける「もっとノリだけを追求したいのに」というニーズ。ガールズモードならば着せ替えのあるゲームにおける「もっと着せ替えだけを追求したいのに」というニーズ。世界樹と不思議のダンジョンなんかも「(据置ではなく)携帯ゲーム機でも不思議のダンジョンがしたいのに」というニーズがありつつ、さらに「世界樹にも興味はあるんだけどなんとなく手が出ない」という部分を良い感じにエクスキューズしている。Splatoonがなかったら買っていたであろうどうぶつの森の部屋のコーデのやつも「もっと部屋の構成だけを追求したいのに」というニーズからだ。
つまり、自分がゲームを買うのはかなりこういった「半端に経験した」、いや、「半端に充足されてしまったニーズ」を完全に充足したいから購入する、というのが大きい。


・まとめると、自分が実際にゲームを購入するのは「半端に充足されたニーズ」を満たすから、だ。


・では改めて「変わったゲーム」の話に戻る。
まぁ言うまでもなく、「そのゲームが変わったものかどうか」というのは「半端に充足されたニーズを満たすか」というものとは関連を持たない。むしろ新規であるが故に「これなら半端なニーズを満たしてもらえそうだ」とは思われづらい。
自分のニーズに従う限り、「半端に充足されたニーズ」を中核に据えないとダメだろう。それに特化しないとダメだろう。その形状である限り「変わったゲーム」にはなりえない気がする。「お題」として使う事は不可能ではないが、「変わったゲーム」としての成分が入るせいでまたニーズの充足が半端になる可能性が高い。
となると、やはり自分が作れる「変わったゲーム」と自分が実際に購入する「半端に充足されたニーズを完全に満たすゲーム」には明確な隔たりがある事になる。少なくとも現時点では両立の芽がない。


・であればペルソナの方を変更するべきか。自分からは遠くなるせいで実感するのは難しくなるが、客観的にもなるので冷静に判断できるか?


・いや。いやいや。「変わったゲーム」を断念したら?ここまでちゃんと自分のニーズを理解したのなら、そのニーズに沿った商品を作るべきでは?


・ちょっと整理しよう。自分が作るゲームの方向性として考えられるのは3種類。自分にしか作れないであろう「変わったゲーム」。単純に「自分がやりたいゲーム」。そしてさっきの「半端に充足されたニーズを完全に満たすゲーム」。2つ目と3つ目は似ているが、2つ目はより広範囲のものであり、それ故に他人のニーズを満たす可能性が低くなる=売れない可能絵師が高くなるものだ。
モチベ的にはわりとどれでも良い。変わったゲームは作りたいし、自分がやりたいゲームは当然作りたいし、半端なニーズを満たせるならやはりそれも作りたい。だからモチベ的にはどれでも良い。
他人が自分という個人に期待されているのは「変わったゲーム」だろう。ただし、それが商品である必要性はない。それはかつてのように無料のFlashゲームとして提供して構わない。それで注目を集めてニーズを満たす方の商品に誘導するというのも考えられる。(満たすニーズの齟齬があるので、そこらへんの誘導・調整は必要だが)
この中で一番稼げる可能性があるのは「半端なニーズを完全に満たすゲーム」だと思う。少なくともそれが一番実感をもって理解できるニーズだし、「体験版より先に体験済み」という部分からやはり購入につながりやすいと思う。
ただし、それを「個人で作れるか」はまた微妙なところだ。リズム天国ならまだなんとかなるし、携帯機でのローグライクもまだ可能性はある。しかしガールズモードのあの物量とジャンルごとの理解度などは個人ではとてもムリだ。それはまぁ「変わったゲーム」でも同じ事か。単に個人の規模に沿ったものにすれば良いだけか。
あとは競合の問題がある。違うな。規模を活かせないという問題か。つまり、半端なニーズを完全に満たすゲームを作ったとして、それは会社規模でやった方がより完全に満たせるのではないか?という事だ。一番乗りはできてもシェアの維持はできないだろう。それで良いと割り切って常に新しい市場に一番乗りし続けるのか。そもそも一番乗りし続けられるのか?


・そろそろ良い時間だな。明日考える事をメモして終わろう。
後でちゃんと考えたいのは「3種類のうちのどのゲームを作るべきか」で、そのために「そもそも現時点で何か半端なニーズを自覚できているか?それを満たすゲームを個人で作る意味はあるか?」というのと「変わったゲームを実際に購入する人はどんな人か?そこからペルソナを上手く組み立てられるか?」というのを考えたい。


・おそらく「半端に満たされてしまったニーズ」ってゲーム以外にもあるはずなんだよな。例えば脳トレなんかは「TVでの一方通行や紙媒体だと採点してもらえない」という形で半端に満たされてしまったニーズを完全なものにしたもの、と言えなくもない。そういうゲーム以外での半端さをゲームにおいて完全に満たす、というのはアリな気がする。つまりアンテナはゲーム内だけに向けるべきではない。


・まだ思考が続いてしまうな。一応書いておくか。
「半端さ」と「不満」は似て非なるものだ。「不満」の解消は「改善」である。その商品の延長線上に存在する。それに対して「半端」の解消は「特化」である。その商品とは別の軸を持つ商品として別途作成されるものだ。観察する場合はそれに注意しないといけない。


・しかしむしろ「特化」というのは個人向きな気がしてきたな。コンシューマが特化していないように見えるものが多いのは、あれもこれも詰め込んで製品寿命を伸ばそうとか幅広いターゲットを得ようとするからだ。それ故に半端さが発生する。そして特化してしまうとターゲットも特化型になってしまう。会社規模だとペイしないターゲットが存在しうる。であればやはり「特化」は個人開発においては重要な指針の一つな気がする。


・さすがに思考を止めよう。ていうか雑記をとっとと上げてしまうか。そうすりゃ書くのは控えるはず。