不定期雑記

・月曜。睡眠時間7〜8時間くらい?まだちょっと寝つきが悪いし断続的な起床も多い。


・昨日はKindleでサンプルが読めるやつの中から行動認知療法の本をちょっと探して購入して読んでた。眠りが良くなる効果もありそうだったし。
で、気付いたけど意外とまだ自分は鬱なのかもな。自己否定はそれほど強くないんだけど、「寝つきが悪かったり二度寝ができなかったりする」「気力が出ない」「作業がはかどらない」「つい食べ物に手が出る」とか色々な症状がマッチする。


・それはそれとして、「個人開発」についてどうすべきかという問いを立てたら「すでに個人で食っていけてる人の情報をもっと仕入れる」という解決方法に至った。他にも「個人で食っていけてる人に話を聞きに行く」という案も出てきたが、これは自分にはまだハードルが高いな。不可能ではないんだろうけど、まずは普通に他の媒体で情報収集はできるはず。
そしてあくまで「個人で食っていけてる人」であって「個人開発者」ではないんだよな。プログラマー的なものでなくても良い。まずは「個人で食っていくとはどういう事か」をちゃんと理解する必要がありそう。


認知療法では色々と自分にとって「何かしらの過剰な反応をしてしまう事」を列挙してからあれこれ考えたりするのだけど、意外と思いつくものだね。そしてあくまで現実的な対応として考えればそれなりに修正はしていけそうな感じはある。
で、自分のパターン(スキーマ)は「自分が肯定されるはずがない(肯定されるなら裏がある)」というものっぽいな。何を褒められるにしてもこれに基づいて否定から入ってる。とりあえず反証として「相手にとってメリットがない状況がある」というのもあるし、「裏があったとしてもそれはそれで別で考えれば良い」という考え方もできるので、否定するのではなく困惑程度で留める事はできそう。依然として受け入れる事はできないままだけど、わざわざ否定するほどのものではないとは思えるようになった。なったというか、思えるようにしていこうという感じか。


・まぁ自分自身の改善のためにも使えるんだけど、行動認知療法を調べようと思ったのはそもそもシナリオに活かそうと思ったからだ。この前のスクリプトドクターの本を読む限り、カタルシスは主人公の成長そのものであり、主人公の成長とは現実の人間の成長となんら変わりない。そして成長とは自分で作った殻(思い込み)を自分自身の行動で否定してみせる事と言える。(厳密には成長の一種と言うべきだが)
というわけで方法はなんとなく分かってきた。後は自分自身で実践したり、既存の作品を分析してストックを溜めていく感じだろうな。


・まだ体調は回復したとは言えない感じだが、思考は多少整理されてきたように思う。


・一ヶ月の休みで「ゲームを2つ作る」のを目標にしてたけど、たぶん間違いだな。そうではなくてあくまで「個人で食っていく事を軌道に乗せる」のが最重要だ。そのための手段の一つでしかなくて、しかしであれば「個人で食っていく事の情報を改めて収集〜解析する事」の方が現時点では優先度が高いと思う。今までだってゲームは作れなくはなかったわけで、しかしそれで上手くいっているわけではないのだし。できてる人との差分に意味があるくらいまでは前進できたのでムダだったわけではないが、できてないまま進むものでもない。


・というわけで「個人で食っていく事」について調べ始めたけど、これはどう検索すれば良いのだろうな。「個人事業主」で検索しても税金とかそういう対策系ばかりだし、「フリーランス 個人開発 自営業」みたいに列挙してもリストとかが表示されたりはしない。
まずはどう調べるかを考えるか。
どんな情報が欲しいかというと「色んな種類の個人で食っている人」が知りたい。フリーランスもそうだし自営業とかもそうだろう。具体的にそういう種類を列挙してググれれば良いのだけど、そもそも知らないから調べたいのであってそういう検索方法は難しい。
であればまずは個人かどうかに限らず「職業」のリストを探すか。それを見て「これは個人で食っていける例だ」というのをリストアップすれば良い。


・あぁ。「画家」とかそうか。そして「個展」みたいな形式やら「ポストカード」みたいな別メディアへの加工とか色々と使えそうな情報があるな。この調子でリストアップしていこう。


・もっと広義に言えば「芸術家」か。それならかなりバリエーションがありそうだし、自分の能力とも近いものはあるから参考になりそう。これはまた別途調べよう。


・ゲームにおける個展みたいなものがゲームショーみたいなアレになるのかな。いや、「個」展ではなさそうだけど。でもまぁそういう事か。


・休み方がようやくわかってきたというか。いや、なんか違うけど。
1時間くらい何かをしたら15分ほど「布団で横になってダラける」というのをやりたい。特に夕方前ならこの流れで寝れそうなら寝てしまいたいし。ちゃんと横になる以上は大した作業ができなくなるから休むことに専念しやすくなるし、これでちゃんとダラける事に慣れたら夜に寝る時も寝やすくなるのではないかと思う。


・調べててなんとなく分かってきたかも。厳密には「次に調べるべき事」が分かってきた。
「芸術とマーケティング」だな。ゲーム作成においてはもっとも近いし、(デジタル)ゲームに比べると歴史が長い。そもそもの捉え方であったり実際の売り方であったり。そういうのが参考になりそう。あとは他人事として捉えられるから客観的に評価できそう。


・そろそろ今日の個人作業は終わりにするか。目のしんどさが微妙にあるし。後は明日また書籍の形でまとまってるものを探そう。


・一応、例の「良い大人」論について書いておこう。
「良い大人なら〜」という思想そのものには問題はない。自分で実践するぶんにも問題はない。ただし、「それが当然である」と言った時点で思想の押し付けになる。
自分としてはどちらかと言えば思想そのものには賛同できる。自分自身だけでなく他の人につながるようなリソースの使い方をするのは好ましいとも思える。ただし、それが「他の人にとっても当たり前であるべきだ」となった時点で強い反発を覚える。
何度か書いているが自分は敬虔ではないファラリス教徒である。何よりも、とまでは言わずとも「自由」すなわち「選択肢が存在する事」をそれなりに大事に思う。それ故に他人から自由を奪う事、他人の選択肢を制限する事、バリエーションを否定する事に強い反感を覚える。
ここまでは別に良いんだ。所詮は他人の戯れ言だ。ここでわざわざ反応したのは「自分もまた同じように他人の自由を否定するのではないか」という危惧だ。
前述の通り「多少好ましい」程度の思想であれば、その思想の押し付けよりもちゃんと自由を優先できる。ただ、その思想が「自分にとっての正義」であった場合、自分は正義よりも自由を優先できるか?そもそも優先するべきなのか?という問題を認識してしまった。
正義は所詮正義だ。単なる個人の価値判断に過ぎない。ましてそれが一般性を持つなど思い上がりも甚だしい。そう「考えられる」ようにはなった。しかしそう「思える」ようになっているだろうか?「個人の判断に過ぎない正義」よりも「それぞれの在り方としての自由」は理屈上は優先されるべきだろう。しかし感覚的にはまだそう思えていない。であれば現実の事象に対してちゃんと自由を優先するような振る舞いができるだろうか?
そういう問題提起としての価値はあった。


・もう一つ書いておこうか。
上のような思考になったのは発言者とは直接は関係ない。「思想を押し付けるようなタイプの人間だったのか」と多少なりとも失望しながら(つまりは以前の相手には価値を見出しながら)ブロックとミュートを行って最初はそれで終わりだった。
ただ、その後に「そんな変な事言ってるか?」「反応が過剰じゃないか?」という類のツイートがRTされてきて、「あぁ、問題の是非を思想の内容だと思ってるのか。思想の"押し付け(当然であると公言する)"が問題なのになぁ」と考えてハッとしたのだった。「じゃあ自分が傾倒する思想の時も同じような反応ができるのか」「正義の話題だった場合に自分は"押し付け"をちゃんと問題視できるのか」となってさっきのような思考になった。


・そういえば書いてて気づいたけど、思想の「押し付け」って具体的にどういう基準なんだ?というののサンプルにもなるかもな。
単なる「発言」は押し付けではない。いわゆる「個人の感想です」ってやつだ。
しかしそこに「一般性」を加えると押し付けとして自分は判断するっぽい。「一般的にXXなはずだ」「XXなら当然YYだろう」という風に「個人の思想に過ぎないもの」を「あたかも一般的な事実であるかのように提示する事」を押し付けとして認識している。
逆に「特殊性」として述べられたものは押し付けとは判断しない。「自分はこう思う」という類のものは押し付けではないし、それに対して「私はそう思いません!撤回してください!」的なのは逆方向の思想の押し付けだろう。
ただ、Twitterに限らず大抵の発言は「個人の感想」に過ぎないはずなんだよな。「自分にとっての一般性はこうである」というのは果たして一般性なのか特殊性なのかという問題だ。
なんにせよ「一般性」というのは一つの軸ではあるのかもしれないな。「リプライという形式はとってないから押し付けではないはずだ」というのは「対話ではないから街頭演説しても押し付けではないはずだ」という感じで違う。
なんか文章がまとまらなくなってきた。思考がキツいか。


・まとまらないので後は雑多に。
「主張」と「感想」の違い。何が違う?
書き方そのものの問題ではないのかも。「主義」を書く事が「主張」として認識される?
話者の問題ではなく読者の問題として。「この内容なら当然主張のはずだ」という認識。そしてそれ故の反応のズレ。
そして読者によるズレを調整するために「自分は〜と思う」とわざわざ書く必要性。しかしそれすらも読者によっては「そういう形の主張」とみなされる可能性。
「大きい主語」としての問題。「日本人なら」「大人なら」という「自分」や「自分の周囲」を遥かに越えた大きさに対しての言及。それ故に「一般性」としてみなされ「押し付け」として認識される。自分はこれの可能性が高いか。


・そうな。「主語の大きさ」か。目的語な気もするけど。
なんにせよ言及対象が自分やその周囲で収まってないから押し付けだと認識してるのだろうな。