善悪考察ログ

最初はまとめず、広げるだけ広げる。そのログ。はたから見たら、たぶんただの雑記。俺から見ても、たぶんただの雑記。(だって文脈書いてないんだもんよ)


恥と善悪は似ている。恥は「恥じらい」という感情によって、善悪は「正義感」「罪悪感」によって行動を制御する。ここで考えるのは、善悪そのものではなく、この「正義感」「罪悪感」がどのように、何の目的で学習されるかである。


例えば、「恥」においては、他人に笑われると「恥ずかしい」と感じる。同様に、「善悪」においては、他人に叱られると「罪悪感」を感じる。「他人に笑われること」は「他者からの自分の評価が下がること」であり、「恥ずかしさ」はそれを避けるために学習されると説明できる。では、善悪に関しては何を学習しているのか。ただ「叱られたくない」だけではないと考える。


何も学習がなされなければ、善悪の概念は発生しないと考える。脳内エミュレーションの結果ではそうだが、実際はどうなのか。実験はまず無理。ただ、狼少女などの行動記録から多少は検証できるかも。まずやらないけど。
であれば、善悪の概念は生まれ持ったものではない。おそらくは「叱られる」ことによって学習した結果である。「叱る」以外の行動によっても善悪は形成されるのだろうか。


「正義感」「罪悪感」は「社会全体の利得の増大」を目指しているように見える。しかし、それはどうにも納得できない。「恥」が「その社会で存続し続けるため」というのはある程度納得できるので、「社会」を意識しているのは許容するのだが、全体の利得ねぇ、と。
で、考えられるのが「社会全体の利得の増大」に反すると「叱られる」ので、善悪の概念は「社会全体の利得の増大」に貢献しているように見えるのではないか、という仮説。つまり、「社会全体の利得の増大」は結果(副作用)であって目的ではない、という考え。


幼少期に「怒られる」と「叱られる」の区別はできるだろうか?ならば、それによって学習結果の差は生じるだろうか?
仮にどちらの場合も同じように学習されるのであれば、「個体としての利得の侵害」→「怒る」→「個体としての利得を守ろうとする」、「全体としての利得の侵害」→「叱る」→「全体としての利得を守ろうとする」、という風になるのだろうか?
自分が「怒る」「叱る」場合、それは自分が「怒られた」「叱られた」という経験に依存するか?ならば、それは「戦略の学習」と捉えられないか?
「怒る」と「叱る」のバランスによって、「自分単体の利得」と「社会全体の利得」の重み付けが変更されるのか?そのバランスが極端な人間が「自分さえ良ければよい」「悪人は全員死ね」とかになるのか?適正なバランスとは何?(まず、適正はありえないのだろう)
「自分単体の利得を守ろうとする人間」は「特定の相手の利得を守ろうとする」だろうか?
ていうか「怒る」と「叱る」の定義はこれでええんか?まぁ駄目なら「この意味」の別の言葉を使うだけだが。
「個人の損得と全体の損得を分けられてない」という問題はこれを使えば説明可能。


「怒る」「叱る」は、何かしらの損害が発生した場合に行われる。他者からの評価の学習のみではなく、その損害を認識するための学習、という可能性(そこまではないか)。


ただやみくもに「状況→結果」を学習しているわけではなく、ちゃんとその理屈を考えている可能性(言葉にはできずとも)。つまり、「特定の状況→特定の結果」から「ある種の状況→ある種の結果」という拡大が行われていると考えられる。理性のレイヤーなのか本能のレイヤーなのかは不明。こう考えれば、矛盾する学習の結果による善悪の破綻が説明可能。


「正義感」と「罪悪感」は、「主体」の違いでしかないのかもしらん。「許されない行為」を、自分が行う場合は「罪悪感」を感じ、他人が行う場合はそれに対して「正義感(許せない)」を感じる。


今朝、日誌法というやつを試してみた。「恥」に関しては何も感じることはなかったが、「善悪」に関しては色々あって考察のタネになった。面白い。


そいやっさ、「低俗だプンプン」というのは何故におこるんだべさ。あと、「元犯罪者が弁護士になるなんて世も末だブンブン」とかな。「許す」という行為はどこから来るのか。「許す」は「叱る」の反対なのか(叱った後に許す、はありそう)。「許す」は「怒る」の反対なのか(すげぇ排他っぽい)。


むぅ。許すって何だ。