今日の雑記

・睡眠時間10時間くらい?風呂や飯や起床時間を調整して、なんとか21時頃に就寝。何回か目が覚めて、そのたび少し寝づらかったけど、合計すればたぶん10時間くらいにはなるだろう。さすがに食パンが落ちてきて目が覚めたときはどう捉えれば良いのかわからんかったけど。地震が起きたというよりはたぶん寝相が悪くて落ちてきたんだろう。


・しかし、寝過ぎたせいで体が重い。体が重いせいで起きれないし。でもまぁ、寝過ぎたのが原因なら出社中の移動だけで十分元通りになるのであった。代わりに少し眠い。


・「エセ科学」だからといって「正しくない」わけじゃない。たぶんそこから間違ってる。そのラベルはあくまで「科学じゃない」だけであってせいぜい「測定のしようがない」とか「再現可能性がない」とか程度のことだ。
逆に言えば、「間違ってる」と呼びたいなら「エセ科学」だの「科学的じゃない」だのではなく、「科学的に間違ってる」とでも呼ぶべきだろう。


・それはさておき、「正しさ」にいまだ呑まれるのが問題。体調の問題が大きいとはいえ。
「正しさ」をもう競いあいたくない。どちらが正しいかを言い争い、言葉を使う能力やデータを使う能力でそれに勝ったとしても、それとは無関係に現実の現象は起こる。昔みたいに「現実に干渉する能力」を持たない状況ではもはやない。
言葉遊びに戻りたくはないが、体調が悪いとそちらに流されてしまうのはつまり、言葉遊びしてる方が「楽」だからだろうな。何も理解しなくていいし、何も省みなくていいし、何も修正しないでいい。


・息抜きの仕方がわからない。というか、土日に試してわかったけど、「モニタを見るのがつらい」ので常にモニタの前に居るような仕事だと部屋の外に出て云々するくらいしか回復手段がねーんじゃねーの、という感じだ。
いや、手元の紙になんか書いてあれこれすれば良いのか。しかし、最近はメモとかネタ出しもPCを使うようになったので、紙を使うのはだいぶ限定的になったんだよなー。まぁでもこの方向だろう。


・括弧付けずに済ます方法はすでにいくらかは知っている。実際に使えてるわけではないが。
一つは「意味の一意性を制御することで、一意性を確保するための括弧を外す」というもの。例えば"赤い本の文字"という文は"「赤い本」の文字"と"赤い「本の文字」"という2つの解釈が可能であり、括弧によってその意味を制御できる。しかし、実際には"本の赤い文字"みたいに位置をズラしたりして一意性は確保できる。というか、例文が悪いなこれは。しかし良いのが思いつかない。
他には「思考の誘導によって強調処理を省く」というものがある。例えばこの雑記に書かれている文章中の括弧はたいていがこの「強調の括弧」である。実質的にそれは「太字」や「文字色」などと変わりない。書き手による「強調すべき部分の強調」であり、ある種の「思考誘導」である。ただ、それは同時に「他の強調手法が使えない」ということであり、「PVを稼ぐ方法を煽りしかしらない」というのと大差がない。つまり、誰にでも使えて、誰が使っても一定の効果があって、それだけでわりとなんとかなるもの、として括弧が使われている。物書きでない以上、あまり高等な手法を知る必要も使う必然性もないが、それでも一定の安直さは免れない。


・長くなってしまったが、自分の使う括弧はほとんどが「強調の括弧」である。つまり、逆に言えば「他の強調手法を知る」なり「強調を必要としない文章が書けようになる」なりで、この手の括弧はかなり減少できるということである。そしてそれは「ちゃんと想定し思考し修正し学習しながら文章を書く」ということであり、雑記との相性はすこぶる悪い。
ていうか、すでに書いた気がするな。なんにせよ、伝達能力の向上はもう少ししたいところなんだけど、優先度が低いので他のやつに時間を食われてしまう。それでもコピーライティングの能力向上などは必要なので、それに関連してもう少しだけレベルは上がるはず。


・まずもって「読む他人を想定する」ことが重要なわけで、その時点でこの雑記が当てはまらない。そして、なんだか最近エミュの能力が落ちてる気がする。TVを見ないせいで「自分の中の他人」の学習が止まってしまっているのだろうと思う。あとは体調の悪さと他人への興味のなさか。意外と対戦格闘を長らくやってないのも影響がある気がする。というか対戦もの全般をあまりやらなくなってる。


・そういえば「おもてなし」という単語がやけに嫌いなのだ。その思想の有用性は十分に理解しているわけで、単純にこの単語が嫌いなんだろう。「ユーザビリティ」をもう少し変えたような単語であったなら特に毛嫌いはしなかったはずだ。
たぶん、「おもてなし」という単語に「日本人の美徳」だの「日本人的な価値観」だのを見出すから嫌いなんだと思う。「美しい日本」だのと同列にみなしている。外国人が使うと「あぁ勘違いされてるな」で済むわけで、それはつまり日本人が使うと「どの口が言ってんだ!」と感じるわけだ。


・目がしんどいだけでなく、頭痛までしてきた。今日の長距離徒歩は休むか?まぁ実際の帰宅時の状態を見て決めよう。


・寓話にしても宗教にしてもその他のフィクションにしても、たいていの場合「〜をすれば(最終的には)良いことがある」という風に「打算」で物事を勧めてるんだよな。それ故に「たとえ良いことなんかなくても〜をするんだ」という思考はそこからは生まれない。「たとえ良いことなんかなくても人を救うんだ」とかはならない。というか、そういうのは押し付けるものではなくて、本人の覚悟の元に実行されるものだからどうしようもないんだろうけど。
ちなみに、この手の「セリフを意味する括弧」の省き方は知らない。あまり省くべきだとも思えない。省いてあるのを見ても読みやすくはなさそうだし。ダブルクォーテーションでくくっても記号が変わるだけだし。