今日の雑記

・睡眠時間7時間くらい。床につくのがわりとギリギリになってしまったので、認識をいじれなくて寝るモードに入れなかった。
今回はカレーハンバーグのためにポトフだけでなくハンバーグも作ったし米も炊いて冷凍保存したので時間がかかったのもある。そしてそれでも今週分くらいにしかならないので、毎週作業が必要になりそう。
市販の冷凍ハンバーグが自作のハンバーグっぽかったらなー。あるいは「冷蔵」ハンバーグを買うことで時間を短縮するか。それは金がかかりそうだが。


・今年のエイプリルフールは控えめだったかなぁ。自分の観察範囲が狭かったのもあるだろうけど。でもこれで良かった気もする。ちょっとヒートアップし過ぎてた感じはあるし。
今よりもう少しだけお祭りっぽい方が良いけど、ひとまずはこのあたりかなー。


・自分がエイプリルフールを好きなのは、「誰かを楽しませようとする人」が居るからなのかなとか思う。
無論、自己満足で終わる人も居るし、万人が楽しめるわけでもない。しかし、不器用ながらも他人を楽しませようとする人が溢れるこの日が好きなんだろうと思う。


・そして、故に、「エイプリルフールでいちいち嘘をつくな」という人が嫌いなのだろうと思う。それはつまり「他人を楽しませようとするな」という意味だから。
エイプリルフールを楽しめないのは仕方がないし、楽しめと強要する気もないが、「自分が楽しくないから他人も楽しむな」というのはとても日本人的で嫌いだ。
(同様の理由で「エイプリルフールを楽しめ」という同調圧力も日本人的で嫌いなのだが)


・しかし自分はもともと「そちら側」の人間なんだよな。便利さを追求してノイズを排除したかったし、他人に迷惑を与えるくらいなら何もしない方がマシだと思っていた。
別にそれが間違ってるとも思わないが、自分はもう「そちら側」には居たくなかった。誰も救えないと知りながら真面目を貫くのがイヤだった。誰も笑顔にできぬと知りながら真面目を貫くのがイヤだった。何より自分が幸福ではなかった。
別の言い方をすれば「エゴが勝った」んだよな。「幸福になりたい」「弟たちを笑わせたい」「友達を救いたい」「能力を行使したい」というあらゆる欲望を肯定するようになった。
あとは自分自身がノイズだったんだよな。何かを円滑に回す際には自分という存在が邪魔だった。真面目な自分がそもそも迷惑だった。故に自分自身が嫌いだった。


・久々の自分語りだな。精神状態が回復してるんだか悪化してるんだかよくわからんな。
基本的に自分が行う自分語りは「自分の正しさの確認」であり、逆に言えば「自分の正しさを信用できない」とか「他者に肯定して欲しい」とかそういう状況で行われる行為だ。
大学あたりまでのは「他者に肯定して欲しい」という状態だったが、就職してしまえば「お金を払ってでも自分の存在が必要とされている」という事実だけで充足してしまった。これは今でも変わらない。
となれば「自分の正しさを信用できない」ということだが、確かにちょっと自覚はある。特に価値観だの倫理観だのは持ち合わせなくなったと思っていたのだが、それでもまだ幾ばくかの価値観があり、それを疑っている。


・いっそ価値観を0から作り上げたいくらいだけどムリだよな。価値観は学習によるものであり本能の分野だ。
Aをやってとびきり良いことが起こればAに肯定的になるだろうし、Aをやってこっぴどく失敗したらAに否定的になるだろう。どちらかが間違ってるのではなく、単に学習結果が違うだけだ。そしてその連続で価値観は形成される。


・また学習の不整合が起こっているのかな。価値観が変わる時はそういう状況なんだけど、今回は特に思い当たらない。単に「別の解釈が存在しうる」というのを認識して、そちらに移行できそうなことに戸惑っている感じ。
具体的に移行先の価値観がどんなものかはよくわからない。認識してしまったらそちらに移ってしまいそうな気もする。


・前にも書いた気がするが、価値観の遷移は基本的に怖い。今まで信じていたものは崩れるし、新しい価値観をベースに再びその上の価値観を組み上げていかねばならない。


・全てが惰性で動いている感覚。惰性でできることはだいたいやれるが、惰性でできないことが何もやれない感じ。体調回復にはまだ遠い。


・鉄拳のアレを見て泣いてから、「そういえば泣くことが少なくなったなー」とか思った。
泣く代わりに怒ったり憎んだりするようにしていた。泣くのは脱力の方向だが、怒るのはエネルギーとして使える。故に意図的に怒る方向に舵をきるようにしていた。
今はさすがに憎むところまではいかないが、依然として怒りはする。人前で怒るようなことはないが、自己のコントロールができなくなってるぶん、一人だとわりと出てしまう。
もうその手のマイナスのエネルギーを使う機会はないので、そろそろ脱力方面に移行しても良いのかもなー。


・そういえば久々に死の恐怖で発狂したっぽい。おぼろげにしか覚えていないので、どうやら一度寝て薄く起きたか寝入る直前に発狂したらしい。
依然としてここらへんがなー。体調が良くなれば自動で回復する類のものだとは思うけど。


・今週末も10時間は寝られなかった。先週末は10時間寝れたんだっけ。ただまぁ日曜に眠くなったりはしなかったし、壊滅的に寝づらくもなかった。壊滅的でないだけだったが。


・ちょっと「責任」について書きながら思考する。
例えば猫が木で爪を研いだとして、木がその損傷の責任を猫に求めたりはしない。責任とは人間と人間において発生するもののはずだ。
自然の摂理などではない以上、それは「人間が決めること」だ。故にその次代の価値観だの倫理観だのを反映せざるをえない。
法律とは「明文化された責任の取り方」だろう。「よくある事例とその罰の基準」とも言える。今の法律はちょっと(あるいはかなり)古いが、なんにせよ当時における「こういう場合はこの程度が妥当」という思考の帰結のはずだ。
つまり法律の基本部分、「この場合はどの程度の罰が妥当か」という思考を法律以外の部分、法律では罰せられない範囲に敷衍した場合を考えれば良いのだろうか。


・以前にここら辺の事を調べたいと言いながら結局できてないな。金がない以上に体調が追いつかない。


・続き。
法律の存在意義は「社会の安定化」だろう。この世をヒャッハーな世紀末にしないため、特定の事象に罰を与えて抑制することで社会の安定化を図っている。
法律のような「国レベル」のものであれば対象は「社会」となるが、これを「個人レベル」に持ってくるのであれば対象はもっと小さな「村社会」だの「所属団体」だの「クラスタ」だの「身内」だのになるはずだ。
つまり、個人の活動で責任を取る場合、それはだいたい「自分の所属クラスタの安定化」を目指すものであるべきだろう。そしてそれはその対象のクラスタによって対応が変わってくるのだろう。
となると、ここからは個別論だなー。その前にもうちょっと考えたい。


・「責任をとる」というのは「問題の再発を抑制する」ということになるだろう。
「問題」とは「社会の不安定を引き起こす事象」のことと言える。例えば殺人に罰を与えなければ武力管理社会に移行してしまうので、そうならないように罰を与える。
つまり「社会の不安定を引き起こすこと」が罰則の対象となり、責任をとる必要に迫られる。
個人レベルで言えば「クラスタの不安定を引き起こすこと」が責任をとる対象となり、「安定を実現するために必要十分な量の罰則」が責任の具体的な行動になる。


・まとめよう。
責任とは自然の摂理などではなく、人間の決め事である。
責任とは社会を安定させるための決まりごとである。
責任とは社会がその構成員に対して課すものである。
責任をとるとは再発抑制を実現するための行為・罰則を受け入れることである。
といったあたりか。書いてるとまた考えてしまうな。


・「問題の再発の抑制」という観点は抜けていたな。
つまり「故意か否か」が問われるのは「どの程度の罰なら再発しないか」という意味合いがあるのかな。
「社会の安定化」のための「再発抑制」という観点が抜けていた。というかゴールとして「社会の安定化」を想定していなかった。
そしてこの観点さえあれば「責任としての妥当な行為・罰則」というのが導ける。0ではダメだし過度でもダメだろう。


・しばらくは「今日のぶんのタスク」みたいなものがないかなー。「随時対応」って感じ。意図的に休憩を挟まないとまたきついパターン。


・個人レベルで「クラスタの安定」として捉えると色々と掴めそうだな。「そのクラスタに属し続けるか」まで含めて。
そして「ネット上でのできごと」がやや扱いづらそうだ。事象的には「全世界への情報発信」なわけで国すら越える行為だが、影響範囲はもっとはるかに小さいのが普通で、でも炎上で過度に範囲がでかくなることもある。ひとまず別のことを考えてからの方が良いのだろうか。


・目が痛くなってきた。残り30分くらい。相談なしで進められるところはだいたい完了したので残りは休む。