今日の雑記

・睡眠時間8時間半くらい?なんとか0時前には寝れたようだけど、今日も早めに目が覚めてややグダグダ。二度寝での夢を操作しようとして結局寝れない、みたいなことが起こってるので素直に寝ることだけ考えた方が良さそう。


・まだちゃんと言語化できてないけどメモ。調子が良い時の詳細について。
調子が悪い時は「内部の物語」に閉じ込められている。つまり、被害妄想で塗り固められた自分の思考の中だけで生きている。外部と切り離されても成立可能な世界で生きている。というか、外部とすでに切り離された世界で生きている。
それに対し、調子が良い時は「外側の物語」に居る。おそらく、厳密には「外側と干渉するインターフェース」部分に重点を置いている。外側がなくなると存在すらしなくなるような場所。
月曜だけ調子が良かったのは、睡眠時間が短いことによるハイな状態だけでなく、WJを読むことにより「自分の外にある世界を理解しようとする」という現象の比重も大きいのではないかと推測する。同じ要領で外部の世界を積極的に視ようとすればその状態を再現できそうなんだけど、そもそも普通は「読まれることを前提としたもの」が用意されてないか。文字だけの本だと光景などを内部構築してしまってよろしくない気がするし、別の漫画を読むべきなのか。あるいはフィルタが解除できるなら、全ての人工物に込められた「意図」を読めば良いのか。はたまた案内板のような「読まれることを前提としたもの」を探して読めば良いのか。


・「自分を傷つける人間に対してこそ優しくしなさい」的な言説を、「倫理観」などではなくもっと「打算」で理解できるのではないか、と思った。つまり、「自分を傷つけるような人間を救う」ことのメリットは大きい、ということ。
そもそも何故傷つけるのかと言えば、「自分の価値観と相容れない」とか「相手は悪だ」という懐の狭さ・理解努力の欠如など、その人間の弱さ・未熟さが原因であることが多い。そういう人間を「救う」とはすなわち「成長させる・強くさせる」ということであり、それにより誰かを傷つけることはなくなる。自分を傷つけなくなるばかりでなく、他の人間も傷つけなくなる。社会全体として見てもデメリットは存在しない。
唯一のデメリットは「コストがでかい」ということか。あるいはそもそも不可能かもしれない。高齢化するほど学習能力は衰退するので、若いほどなんとかなる率は高そうだが。
他に考えられるデメリットは「自分を傷つけた人間のために何かするのはイヤ」ということだが、これはまた相手と同じく自分の弱さ・未熟さに起因するものなので、それはそれで自分を「救う」べきなのだろう。あるいは「打算」と割りきって「気分的にはイヤだけど、相手を改善すればグヘヘヘヘ」みたいに偽悪的に振る舞うとか。


・「24時間テレビのマラソン」などを見て何故感動できるのだろうとぼーっと考えていたところ、これも努力教の一種なのかなーとか考えた。つまり、「頑張ることは尊い」と思ってるのかなーと。そう考えると色々とつじつまが合う。実際がどうなのかはわからん。


H-Yamaguchi.net: 暴論:デマの「根絶」をめざしてはいけない7つの理由の内容が今まで考えてきたことと色々とかぶっていたので、再びちょっと考えてみる。


・自分が「啓蒙」を嫌うのは、そもそも「教える態度じゃないから」というのもあるし、そもそも「教わる気分じゃないから」というのもあるな。後者の方はあまり深く考えていなかったかもしれない。逆に言えば「教わる気分にさせること」の重要性は高い、ということだよなー。


・不安を煽られた状態だと、買い占めなどの「安全を買う」という現象だけでなく、情報の拡散のような「不安の共有」という現象も引き起こすんだな。これも一種の「安全を買う」にあたるか?どちらかというと「不安の解消」の方であり、プラスではないか。いや、そもそも「安全を買う」の方もどちらかと言えばマイナスの解消の方だな。
「不安のない社会」というのはつまり「危機に気づかない社会」とも呼べるので、まったく不安がない状態というのもアレだけど、やっぱり不安を煽る状態もアレだな。


・デマ、およびその拡散もまた「責任」を負う。というか、発言・行動であれば「責任」が発生する以上、それを糾弾する者もまた「責任」を負うし、そもそも全てのTweetが多少の「責任」は負うだろう。で、その「責任」をどう扱うか、という問題。
糾弾する側は「デマやその拡散者は犯罪者と同等であり理解する価値も人権を認めるほどの価値も太陽の下を歩かせる価値もない」くらいの勢いに見えるけど、自分のその糾弾に対して「責任」を負ってるようには見えないんだよなー。「責任感」で動いてるようには見えるけど、「自分の行動に責任を負ってる」ようには見えないというか。「世界を正しい方向に進めるべきだ」という責任感は持っているように見えるけど、「自分の正しさ」「相手を理解しようとしてるか」などに責任を負っているようには見えない。


・たぶん「共存」という概念がないんだろうな。「間違いはなくさねばならない」という価値観であり、「間違いはなくせないのだから、うまいこと共存できるような社会にしよう」という価値観ではない。
「共存」という概念はもうちょっと考えたいな。「間違い」だけでなくもっと他の「相容れない価値観」に対しても必要なものだろう。そしておそらく「責任」とも関連する。「どういう風に責任を果たすのか」という問いに対して、「間違ったなら一生償い続けろ」では共存できまい。


・共存?共生?まぁ変換しやすい方でいっか。いや、「共に生きていく」という意味では共生の方か?いやいや、「共に存在する」という意味ではどちらも(ry


・「相手を救いたい」という思いよりも「自分は正しい」という考えの方を優先しているようにも見える。ていうか書いた気がするがもう一度。
「相手の不安を解消したい」「相手のことを理解したい」「何に困っているのかを把握したい」という思いよりも、「間違いを正したい」「不安を煽る言説はデマに決まっている」「自分の正しさと逆のものは間違っているに決まっている」という思考を優先しているように見える。
今になってもう一度振り返ってみると、たぶん両方とも不安だったのだろうと思う。「デマ側」の不安は色々と書いたし上のリンク先にもあるけど、「糾弾側」もまた「事態を沈静化したい」「パニックだけは避けたい」「元の生活に戻ることこそ至上」という風になんとかして「安心」を取り戻したかったのだろうと思う。
なんか思ってた結論とは変わってしまった。次で書き直そう。


・別の言い方をすれば、なにがしかの問題があった場合、「弱者VS強者」というよりは「弱者VS弱者」なのかなー、ということ。問題を解消する場合、「両方を救う」ことが必要になり、それぞれの対応は異なりそう。
今回の件で言えば「糾弾する側も救わねばならない」という感じか。しかし、こっちはどう対応すれば良いのかちょっとわからないな。「安心を与える」という目的はあれど、それを実現するための良い手段が思いつかない。


・急ぎの仕事はあらかた片付いた。あとはまぁゆるゆると残りを片付けつつ休憩しつつ趣味のことをやろう。


・「ウザいならリムればいいのに」という感覚と「無計画停電がイヤなら自分でブレーカーを落とせばいいのに」という感覚が似ているが、別の事象かなー。


・地味な案件も一段落。また別の問題が発生してるが、そこは自分の管轄かと言われると微妙なところ。もう少し調べてからコミット&案件をパス。


・「自分の嫌いなものとの共存」か。そうだよな。「不快じゃないもの」との共存はそもそも目指すまでもなく実現されてるはずだ。「共存を目指す」ならばつまり「不快なものとの共存」にならざるをえない。